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西郷どんの師、赤山靱負(あかやまゆきえ)が切腹になるのは見せしめ?

2018年1月28日


 

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切腹する織田彦五郎(織田信友)

 

NHK大河ドラマ、西郷どん、第4回は西郷どん達、薩摩藩の下級武士の師匠的な存在だった沢村一樹演じる赤山靱負(あかやまゆきえ)がお由羅(ゆら)騒動の責任を取らされて切腹に追い込まれます。この赤山靱負の死は、青年期の西郷隆盛(さいごうたかもり)に薩摩藩の政治改革を痛感させ後の政治家、西郷隆盛を生み出すのですが、そんな赤山靱負は、どんな人物だったのでしょうか?

 

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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戦国島津4兄弟 島津歳久を先祖に持つ日置家のエリート

 

赤山靱負は1823年に日置島津家の当主 島津久風(ひさかぜ)の子として産まれます。この日置氏は島津氏の分家の中でも特にエリートで、戦国時代に勇名を馳せた島津の4兄弟、義久(よしひさ)義弘(よしひろ)、歳久(としひさ)、家久(いえひさ)の中の歳久の血を継ぎます。そのような事情から、江戸期には日置島津氏として、代々、島津家の家老を出すなど、非常に重要な一族でした。

 

赤山靱負は5人兄弟の長男なのですが、側室の子であったので、日置島津家を継げず、赤山家へと養子に出されました。面白いのは、日置島津家の兄弟は、当主の筆頭家老、島津久徴(ひさなが)宮司になった3男、田尻務(たじりつとむ)、五男で桂家を継いだ桂久武(かつらひさたけ)と兄弟全員が斉彬派でした。

 

そして、名門の家柄に生まれた事が、赤山靱負に悲劇をもたらします。

 

赤山家も名門であり、靱負も順調に出世し、鑓奉行、奥小姓、軍役方掛へと出世の階段を上っていきました。

 

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赤山靱負の靱負ってどういう意味?

 

ところで、江戸時代の人とはいえ、靱負って変な名前ですよね?

 

ドラマだと深く考えずに、さらっと流してしまいそうですが、実際には、どういう意味なのでしょうか?調べてみると、靱負の起源は、奈良時代の律令制度に遡ります。当時、宮中の警備を担当した衛府という役所に勤めていた役職を靱負(ゆげい)と言い、元々、矢を入れている袋を背負って警備する人の意味でした。そうなると、赤山靱負は鑓奉行で軍役方掛で、名前も弓袋を背負う人なんですね。

 

今風に言えば、名前が謙信で、元自衛隊員で防衛大臣みたいな感じです。

 

 

西郷どんとは、本当に仲が良かったの?

 

大河ドラマでは、西郷どんや、大久保一蔵(いちぞう)とも気さくに交流する兄貴、赤山靱負ですが、本当に西郷どん等と仲が良かったのでしょうか?

 

史実では、そんな事はなかったようです、それというのも赤山家というのは、薩摩藩内でも高級武士であり、下級武士の居る処にホイホイ出入りするなど身分制が厳格だった薩摩藩では、あり得ない事でした。ただ、西郷どんの父である西郷吉兵衛(きちべい)が、御用達として赤山家に出入りしたので父の口から、赤山靱負の事は聞かされていたでしょう。なので、全く無関係という事は無かったと思います。

 

 

赤山靱負と篤姫(あつひめ)は関係あるの?

 

史実の上では、赤山靱負と篤姫(あつひめ)は全く接点がありません。それというのも、篤姫が徳川に嫁ぐより前に、赤山靱負はお由羅騒動の責任を問われて切腹してしまうからです。

 

ですが、赤山靱負を演じる沢村一樹さんは、2008年の大河ドラマ篤姫でも薩摩藩士、小松清猷(こまつ・きよもと)として出演しているのです。ここでも、沢村さんが演じる小松清猷は薩摩の名門出であり、同時に神童と呼ばれた人物なのですが、藩の仕事で琉球に渡り、そこで1855年に28歳で病死しています。

 

この小松家を継ぐのが、瑛太さん演じる肝付尚五郎(きもつき・なおごろう)で、後の小松帯刀(こまつ・たてわき)です。帯刀は、篤姫に淡い恋心を抱くという役柄で、大河ドラマでは主役級の役割でした。

 

※今回の西郷どんでは、瑛太さんは、大久保一蔵役で出ています。

 

今回、沢村さんが演じる赤山靱負も切腹した時には、27歳という若さでエリート沢村一樹さんは「なんか篤姫とダブるなぁ」と思っているかも・・

 

 

赤山靱負の切腹は西郷どんにどんな影響を与えたの?

 

1841年に18歳の赤山靱負は江戸に上っています。そこには、32歳でいまだ家督を継げない島津斉彬(なりあきら)がいました。江戸での斉彬の交友関係は広く、その名声は知れ渡っていたようです。赤山靱負も斉彬の人物に魅了され、次の藩主は斉彬だと思ったのでしょう。しかし、藩主の斉興(なりおき)の側近であった、父の島津久風はお由羅の子である島津久光(ひさみつ)を推していました、もちろん、斉興もそうです。

 

そんな中で久風の4人の息子、島津久徴、田尻務、桂久武、そして赤山靱負は、団結して、斉彬の襲封(しゅうふう)を願い運動しました。ここで、日置島津家は、父と子で斉彬派と久光派に分離します。やがて、斉彬派による、薩摩藩の密貿易情報のリークで斉興を隠居に追い込もうとした事件や、久光とお由羅の方を殺害しようとしたお由羅騒動が発覚すると、斉興は激怒し、事件の首謀者である13名に切腹を命じる沙汰を下し、その中には赤山靱負が入っていました。

 

これは、恐らく、藩を支えるべき島津氏の支流である日置島津氏から自分に離反する人間が出た事に対する斉興の無言の圧力ではないか?と考えられます。さすがに、後継の島津久徴を処罰する事は出来ないので、一族の赤山靱負に腹を切らせて、私に背くとこうなるという見せしめにしたのかも知れません。

 

靱負切腹の時には、西郷隆盛の父である西郷吉兵衛が介錯したという話もありますが、それは誤りであり、本当は剣豪として知られた加藤新平という人が介錯をしたというのが正しいようです。

 

 

ただ、この時に西郷吉兵衛は、切腹の時に赤山靱負が着ていた、血染めの肌着を形見として受け取っています。父から、血染めの肌着と靱負の最期を聞かされた西郷どんは号泣したそうです。西郷どんは、赤山靱負の人となりを良く知り赤山靱負の遺志斉彬を藩主にするという思いを新たにしたのでしょう。

 

 

赤山靱負の墓はどこにある?

 

赤山靱負の墓は、島津日置家の領地だった日置市日吉町日置の桂山寺跡に存在しています。ただ、元々、お墓を管理していた桂山寺がなくなっており、山の中に墓が位置しているので、草が生い茂り気軽に墓参とはいきません。蜂や蛇などに注意して、それなりの重装備で行く方がいいでしょう。

 

もちろん、墓参りなのですから、献花した花を放置したり、線香を燃やしたまま、現場を立ち去るような非常識な事はせず、ゴミは、ちゃんと持ち帰るのがエチケットです。 

 

赤山靱負の子孫はどうなったの?

 

赤山靱負は27歳で切腹して人生を終えているので、記録を見る限りでは、子孫の記述はありません。しかし、赤山靱負の弟にあたる桂久武は、西郷どんと親交を結んでいます。

 

1861年、桂久武は、兄である日置島津氏の島津久徴が斉彬派であった事から斉彬死去後に左遷されます。同様に、久武も造士館演武掛方であったのを左遷され、奄美大島で、大島守衛方、銅鉱山方になります。この頃に、奄美大島に流されていた西郷どんと意気投合した久武は親交を結び許されて藩に戻ってからは、大目付として家老の小松帯刀と協力して、藩論を尊王倒幕にまとめていき、薩長同盟の締結に尽力しました。

 

明治維新後は、西郷どんと共に鹿児島藩の権大参事となり藩政TOPを勤め1871年には都城県参事、豊岡県権参事を歴任、1873年豊岡県権令の辞令を受けますが病気を理由に断り、鹿児島に帰ると霧島山麓の開拓指導・鉱山開発の指導を行います。

 

 

西南戦争では、久武は当初、西郷どんとは距離を取っていましたが、1877年の2月17日に西郷軍が鹿児島を出発する時に気が変わり、家族に刀を取りに行かせ、そのまま西郷軍に従軍し、補給部隊を指揮します。そして戦争を戦い抜き、城山で流れ弾に当たり戦死しました。

 

はじめての明治時代

 

 

幕末ライターkawausoの解説

 

お由羅騒動の責任を取らされて切腹する赤山靱負について解説しました。かなり初期で死んでしまう靱負ですが、西郷どんを号泣させる程なので、さぞかし立派な志を持った人ではなかったかと思います。こうして、名もなき人々の志は、次々に引き継がれていき、明治維新へと繋がっていくのですね。

 

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西郷どん

 

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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