2月3日は節分。豆まきの日ですね。立春の前日に、邪気を払うために豆をまきます。
これのルーツは日本の平安時代から行われている宮中行事「追儺(ついな)」で、
大晦日に行う鬼やらいの儀式でした。
そのまたさらにルーツは古代中国の祭日「臘日(ろうじつ)」です。
※節分の日付は年によってずれることがあります。
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臘日(ろうじつ)は中国で古くからあった冬の祭日
臘(ろう)という行事は、遅くとも春秋時代(しゅんじゅうじだい。紀元前770年~
紀元前403年)早期にはあったそうです。秦(しん)の恵文王(けいぶんおう)の
十二年(紀元前327年)に祭日として規定されました。
三国時代の前の漢(かん)の時代には、臘日(ろうじつ)は冬至のあとの三回目の
戌(いぬ)の日と決められていました。旧暦の十二月下旬頃になります。
日本の宮中行事の追儺(ついな)は大晦日でしたが、そのルーツの臘日は
べつに大晦日ってわけじゃなかったんですね。
漢(かん)代の臘日の宮中行事
臘日は邪気を払い先祖を祀る日です。
朝廷では臘日の前日に邪気を払う儀式「大儺」が行われます。
中黄門(ちゅうこうもん)の子弟のうち10歳~12歳の少年120人が
侲子(しんし。お稚児さんみたいなもの)となり、
赤い頭巾と黒い服を身につけて鼗(とう:でんでん太鼓みたいなもの)を持ちます。
中黄門冗従僕射(じょうじゅうぼくや)が、
方相氏(ほうそうし:おっかない格好をした陰陽師みたいなもの)や
十二神獣の扮装をして少年達を率い、躍りながら大声で邪鬼を追う言葉(鬼は外、みたいな?)を
言って回り、宮中の邪鬼(魑魅魍魎(ちみもうりょう)、悪夢や不祥の類)を追いたて、
炬火(たいまつ)を持ち端門(たんもん:宮殿の正門)の外に追い払います。
端門の外にも火を持った係が待ち構えており、
最終的には首都洛陽(らくよう)の外を流れる河
洛水(らくすい)に邪鬼を追い落とします。
役所では鬼退治ができる神獣のお面を作り、
門に桃梗(とうこう:ここでは桃の木でできた札のこと)を立てます。
桃梗には鬼門を守る神仙である鬱儡(うつるい)が
手に葦索(あしなわ)を持っている姿を描き、門の上には虎の絵を描きます
(鬱儡は邪鬼を葦縄で縛って虎に食べさせて退治したことから)。
鬼やらい終了後、公卿、諸侯、将軍らには魔除けの葦戟(いげき)と
桃杖(とうじょう)が下賜されます。
民間での臘日の過ごし方
臘日は一家団欒の日で、外遊中の人も家に帰って過ごします。
いい服を着てごちそうを用意し、一族の年長者に酒を勧めながらお祝いの言葉を言い、
宴会をして一年の労をねぎらいます。家での宴会のあとは、主君や師に挨拶回りをします。
漢代中頃までは非常に重要な祭日とみなされており、戦時にもちゃんとやりました。
前漢と後漢の間の新(しん)の頃に起こった赤眉(せきび)の乱の赤眉軍が長安に
入城したという混乱の最中にも、赤眉軍は臘日に音楽を奏で宴会を開いています。
後漢の虞延(ぐえん)が細陽県(さいようけん)の長官だった時には、
服役中の刑徒を臘日に一時帰宅させています。
臘日とお正月
漢の時代には盛んだった臘日ですが、
三国志の頃になると元旦のほうが重視されるようになってきました。
やがて年末年始行事としてひとくくりに見なされるようになり、
今では臘日を祝う習慣が残っている地域はわずかで、
ほとんどの地域では臘日の行事は旧正月である春節に吸収されています。
鬼やらいをしてから一家団欒という過ごし方は、
いにしえの臘日と現代の春節とで共通していますね。
臘日の鬼やらいは太鼓でしたが、春節では爆竹です。
三国志ライター よかミカンの独り言
『続漢書』には、臘日の鬼やらいの時に桃弧(とうこ:桃の木でできた弓)で棘矢
(きょくし:茨の木でできた矢)を射ながら土鼓を叩くとあり、また、赤丸と五穀を撒く
とあります。穀物を撒くという行為は、日本の節分に似ていますね。
桃に魔除け効果があるという話は日本では広がっていませんが、鬼退治をする
桃太郎が桃から生まれたというところには、桃の魔除け効果の名残があります。
桃太郎の話は、学生時代に先生に聞いていたのを何年間もすっかり忘れていたの
ですが、ついこの間パチンコ屋の前で「CR 桃剣斬鬼」の宣伝を見てハッと思い出しました。
桃剣斬鬼か……なるほど。たしかに。鬼を退治するのは桃じゃなくっちゃね。
と納得した次第。
参考文献:『中国风俗通史 秦汉卷』 彭卫 杨振红 著
上海文艺出版社 2002年3月
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