こんにちは。コーノヒロです。
今回は、邪馬台国の最期の戦いの後編のお話です。よろしくお付き合いください。
前回は、生駒の戦い(第一次 邪馬台国Vs大和朝廷戦争)によって、
大和朝廷側、つまり、五瀬命と
神倭伊波礼毘古命[後の神武天皇]の軍は、
邪馬台国軍に敗北します。
しかも、兄のイツセは、その戦いで負傷し、それが元で、亡くなってしまいます。
残された、弟のカムヤマト(神武)は単独で軍を統率していき、邪馬台国軍を撃破し、
大和朝廷の基盤を作り、初代天皇「神武天皇」として名を残すことになるのです。
その軌跡を詳しく見ていきましょう。
そして、今回は『古事記』だけでなく、『日本書紀』にも大きく参考にさせてもらっています。
というのも、今回の邪馬台国の最期の決戦と結末について詳細が書かれているのは、
『日本書紀』の方だからです。興味深いお話になっているので、是非、ご一読ください。
日本の古代史を分かりやすく解説:「邪馬台国入門」
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この記事の目次
カムヤマト(神武)軍 熊野へ敗退
イツセの死によって、戦力が削がれたカムヤマト軍ですが、
逃れた熊野の地でも苦難が待ち受けていました。
疲弊し、野営していたカムヤマト軍を熊の怨霊?かと思われる群れが取り囲んだのです。
ただ、これは、熊の毛皮をまとった種族だったのだろうと言われています。
その見慣れぬ熊の毛皮をまとった種族に、
カムヤマト軍の兵士たちは驚き、腰を抜かしたでしょう。
しかも、その熊族の一団が「神の毒」を発したのです。
これは吹き矢の一種かと推測されるでしょうか。
それによってカムヤマト軍の多くは気絶してしまうのです。
熊族の一団に身ぐるみ剥がされるという危機的状況でした。
しかし、ちょうどその時、天からの神剣・布都乃魂によって
助けられたと、これは、記紀(『古事記』・『日本書紀』)に書いてあります。
こちらは、後の天皇家の皇位継承の正当性を証明する三種神器にもつながりそうですね。
ただ、今回は、この神話性の富んだ場面を、
歴史性の強い、現実的な話として探っていきますと、
地元の勢力の豪族かが、カムヤマトを助けたと言ってよいでしょう。
おそらく、当時の畿内の最大勢力の邪馬台国、
あるいは、その大将軍・ナガスネヒコ(長髄彦)への専横に
不満があったと推測もできるでしょうか。
あるいは、カムヤマト側の調略により、その地元勢力は口説かれたとも考えられますね。
結局、カムヤマト軍は兵力増強を実現できたようなものでしょうか。
八咫烏の登場
さらなる、兵力増強が 有名な八咫烏の登場です。
これは、兵力というより、知力と言いましょうか。道案内の役割の存在の登場です。
これは、土地勘の優れた、つまりは、その土地に慣れた地元の民ということになるでしょうか。
ただ、単なる道案内の役割を果たしただけにしては、存在感の強いのが、この八咫烏です。
おそらくは、忍びの者のような存在だったと考えられないでしょうか?
特にこの地域は、後の伊賀・甲賀の里にもそれほど遠くはありませんから、
その可能性は十分にあるでしょう。
あるいは、もしかしたら、道標的存在としての
知恵者の獲得を指すとも考えられるでしょうか。
つまり、参謀的存在、『三国志』でいうところの諸葛亮孔明のような存在を
味方に引き入れたとも考えられますね。
ともかく、そんな八咫烏には、熊野の地で出会ったと言われています。
カムヤマト(神武)軍が険しい山々に囲まれ、目指すべき大和盆地の方向を
見失っていたときでした。
その八咫烏の案内で宇陀(現在の奈良県宇陀郡)の地まで無事に進みます。
日本古代史を分かりやすく解説「邪馬台国入門」
ミチノオミとオオクメが宇陀の豪族を破り拠点を得る
しかし、宇陀の地では、兄宇迦斯、弟宇迦斯という
兄弟の勢力が力を奮っていました。カムヤマト軍の動きも察知していたようです。
そして、兄のエウカシ(兄宇迦斯)は、カムヤマト一行を館で歓待すると見せかけ、
だまし討ちする計画を立てていました。
しかし、その計画を知った弟のオトウカシ(弟宇迦斯)がカムヤマトに密告します。
それを知ったカムヤマトは、家臣の道臣命と
大久米命に処置を命じます。
ちなみに、この二人は後の大和朝廷の重臣となる人物です。
ミチノオミノミコト(道臣命)は大伴氏の祖先で、
オオクメノミコト(大久米命)は久米氏です。
さて、ここで重大な事実が出てきました。
ミチノオミノミコト(道臣命)は「大伴氏」の祖先ということです。
以前の記事で紹介したことは、邪馬台国の卑弥呼政権下で、
総理大臣的役割を果たした、難升米は、大伴氏の祖先ということでした。
つまり、難升米の子孫がミチノオミノミコトということになります。
邪馬台国の家臣(あるいは、旧家臣)が、カムヤマト軍にいたということなのです。
邪馬台国の求心力の低下が伺えます。
そして、そのミチノオミノミコト(道臣命)は手勢を引き連れ、
エウカシ(兄宇迦斯)にカムヤマト側の使者として会いに行きます。
初めは何も知らないふりをして近づきますが、
館の中に物が落ちてくるなどの仕掛けがしてあることを見抜くと、
エウカシ(兄宇迦斯)に刃を突き付け、返り討ちにします。
宇陀の弟のオトウカシは、カムヤマトに忠誠を誓い、酒と肉で一行を大いにもてなしました。
こうして、ミチノオミノミコト(道臣命)の活躍で、カムヤマト(神武)一行は危機を脱し、
さらなる兵力増強と食糧の確保に成功します。
※進路は大雑把です
この宇陀の地で地元の勢力の協力を得られたため、
宇陀を拠点に軍を進めることが可能になりました。
ここまで来ると、大和盆地の邪馬台国の拠点
(おそらく奈良県桜井市付近。ここではこの説の立場を取らせてもらいます。)までは
約10㎞程度と相当に近くなりました。
いよいよ最期の決戦はすぐそこまで迫ってきていたのです。
桜井の戦い(最終決戦)
さて、この「桜井の戦い」が邪馬台国最期の戦いとなる山場のお話なのですが、
この最も重要な戦いの詳細は、実は『古事記』には一切記載されていないのです。
詳細が書かれているのは『日本書紀』の方なのです。
よって、この戦いについては『日本書紀』を中心に参考にして語っていきます。
それでは、話を続けます。カムヤマト軍が宇陀の地を拠点にしたことは、
邪馬台国の宮廷幹部にも伝わっていたでしょう。
すぐさま、応戦態勢の命が下った事と考えます。
おそらく、すでにカムヤマト軍の動きを察知していたと考えてもよいでしょう。
桜井の宮廷まで約10㎞程度のところに敵方のカムヤマト軍の本隊が迫っていた訳ですから。
そして、邪馬台国方は、大将軍のナガスネヒコ(長髄彦)の指揮により、
大和盆地へのあらゆる侵入路を防ぎにかかります。
多くの兵力を投入し、以下の記述のように軍兵を配置していったのです。
女坂(桜井市の東南部から東部への抜け道。粟原・忍坂付近。)、
男坂(桜井市南部の多武峰への抜け道。)、
墨坂(桜井市から東方向へ。宇陀市榛原付近)、
磐余(桜井市の西部。橿原市東部付近)、
磯城(桜井市の北東方向三輪山山麓)、
高尾張(桜井市から西方向。葛城市付近)。
邪馬台国方は、ほぼ全軍を投入して、応戦態勢を取っただろうと伺える記述ですね。
この情報は、おそらくカムヤマト方にも伝わっていたでしょう。
ここで、諜報活動も行ったと考えられる、八咫烏の存在が大きくなる訳です。
このときカムヤマトは、手勢を引き連れ、南へ進路を取り吉野山へ向かったと言います。
調略により、地元の勢力の引き込みだったと考えられます。
それは成功したようです。兵力も増強されました。
しかも、彼らは出雲地域の勢力と関わりが深かったという説があるのですが、
このあたりの話はまたの機会に、探っていきます。
騙し討ち、奇襲、奇策の連続でヤソタケルを倒す
その後、カムヤマトは、宇陀の高倉山に上り、全体を見渡し、作戦を練ります。
磯城[しき]には、磯城の八十梟師兄弟と
葛城には赤銅の八十梟師の軍勢が、
また、女坂や男坂あたりにも八十梟師の軍勢が布陣していました。
どうやら、ヤソタケル(八十梟師)の名の付く者たちはたくさんいたようです。
屈強の武士・戦士たちといったところでしょうか。
※注意 黒線はカムヤマト軍の進路ですが大雑把です。
カムヤマト軍はこれらの勢力を討ち倒すことに成功します。
例えば、敵方にミチノオミノミコト(道臣命)がわずかな人数で潜りこみ、
酒宴を催させ、油断している隙をつき、惨殺したようですし、
他には、南部の忍坂(男坂付近)から多勢の兵で向かうと見せかけ、東の墨坂を突破し、
野営で使っている炭火に川の水を入れ、急に煙が立ち上がり敵が混乱している隙に乗じ、
殲滅し、敗退させたようなのです。
『孫子』の兵法でも学んだのかと言わんばかりの策士ぶりを発揮し、
カムヤマト軍は勝利を得ていきます。
そして、ついに大和盆地へと進軍していったのです。
桜井の地で、再び、ナガスネヒコ大将軍が率いる邪馬台国の軍勢と相まみえたのです。
決戦の火ぶたはきって落とされました。
邪馬台国 滅亡のとき
この桜井の戦いでも、初めナガスネヒコの率いる邪馬台国軍が優勢でした。
しかし、突如、金色の鵄が飛来し、
邪馬台国軍の兵士たちの気力を失わせたというのです。
これは『日本書紀』の中での記述なのですが、
真実のところはどうだったのでしょうか?
カムヤマト軍への援軍がやってきたいうことなのでしょうか?
もしかしたら、火力を使った武器が登場したということでしょうか?
この時代、中国大陸でも、『三国志』の時代でも、
史実では火薬は実際は使われていなかったそうなので、
倭国であった日本列島でも使われていなかったでしょう。
火矢などはあったでしょうから、火にまつわる武器が想像できそうです。
ともかく、何かしらの援護を受け、カムヤマト軍は盛り返します。
しかし、邪馬台国軍もすぐに息を吹き返し、ナガスネヒコを先頭に
一歩も引こうとしませんでした。にらみ合いが続きました。
ナガスネヒコ方が使者を差し向け、カムヤマト方に、
「なぜ人の土地を奪うのか?
自分が仕えている饒速日命こそ、
この土地の正統な王位継承者であり、他の土地からやって来る者が
継承できる権限などないではないか!」
と、問いかけます。
カムヤマト方は、自らも王位継承権のある者だと、
ナガスネヒコに諭そうとしましたが、納得しません。
それでは、実際のところはどうだったのかを少し考えてみますと、
カムヤマト方には、ミチノオミノミコト(道臣命)という、
卑弥呼時代の邪馬台国の重臣・難升米(ナシメ)の子孫がいた訳です。
そして、カムヤマト(後の神武天皇)は、
天照大神(アマテラスオオミカミ)の子孫と言われています。
以前の記事で、天照大神は卑弥呼だったかもしれないとの説を紹介しました。
そうすると、カムヤマトは天照大神の子孫と言われていますから、
つまり、卑弥呼の子孫ということになります。
そう考えると、カムヤマト方には正統な継承権はあると言えそうです。
ただ、王位継承とは、血筋などの正統性も大きな基準になりますが、
その土地の民に受け入れてもらっているかどうかも大事でしょう。
ニギハヤヒ、ナガスネヒコを殺しカムヤマトに降伏
ニギハヤヒノミコトを王として君臨させ、
ナガスネヒコが実権を握っていたかもしれない邪馬台国政権へは、
その土地の民からの支持基盤が薄くなっていたとも考えられます。
それを証明するかのように、邪馬台国周辺の地元勢力の豪族たちの中には、
邪馬台国よりも、カムヤマト方を選び、
味方した者がいたという話が伝わっているのです。
しかし、ナガスネヒコは、どんなに説得されても、
刃を向けたまま、攻めかかろうとする姿勢でした。
そんなとき、その様子を側で見ていた、邪馬台国の王である
ニギハヤヒノミコト(饒速日命)が、ナガスネヒコの方が危険な存在だと感じたのか、
ナガスネヒコを殺害してしまいます。
その屍を見せ、ニギハヤヒノミコトは兵を引き連れ、
カムヤマト(神武)に帰順しました。
ここに邪馬台国は滅亡したのです。
古代史ライターコーノヒロの独り言
帰順したニギハヤヒノミコトは、その功績を讃えられ、以後、カムヤマトに仕えます。
そして、これが「物部氏」の先祖になるというのです。
と、ここで、重大な事実がさらりと出てきましたね。
このあたりの記述は、『日本書紀』の中の記述なのですが、
ニギハヤヒノミコトの子孫は物部氏だというのです。
つまり、邪馬台国のラストエンペラーは、あの飛鳥時代に登場した、
物部守屋の祖先ということになります。
物部守屋と言えば、飛鳥時代前期に起きた大戦、若き聖徳太子(厩戸皇子)を巻き込んだ、
蘇我氏対物部氏の戦「丁未の乱」に登場した、物部守屋です。
新たな事実が発掘されてきましたね。
次回からは、邪馬台国のラストエンペラーの一族の話や、邪馬台国終焉後も続いた、
大和地域でのカムヤマト(神武)に反抗した勢力について探っていきたいと思います。
お楽しみに。
《参考文献》
◆『新訂 古事記』
(角川ソフィア文庫)
◆『出雲と大和 ― 古代国家の原像をたずねて ―』村井康彦著(岩波新書)
◆『「古事記」の謎 ― 神話が語る日本秘史 ―』
邦光史郎著(祥伝社黄金文庫)
◆『卑弥呼は狗邪国から来た』
保坂俊三 著(新人物往来社)
◆『日本書紀 上(全現代語訳)』
宇治谷孟 著(講談社学術文庫)
日本古代史を分かりやすく解説「邪馬台国入門」
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