『史記』のはじまりは三皇本紀?五帝本紀?

2018年6月25日


 

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司馬遷

 

中国の歴史を学ぶ上で

必読ともいえるのが司馬遷(しばせん)の『史記(しき)』です。

 

正統な歴史書である「正史」の筆頭を飾る『史記』は、

神話の時代ともいえる頃から

司馬遷が生きた時代までを描く超大作。

 

しかし、そのはじまりは

版本によって「三皇本紀(さんこうほんき)」だったり「五帝本紀(ごていほんき)」だったりと

まちまちになっているのです。

 

これはなぜなのか?

『史記』の本当のはじまりは「三皇本紀」なのか?

それとも「五帝本紀」なのか?

その謎に迫っていきたいと思います。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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そもそも三皇やら五帝やらとは一体何なのか

疑問が湧いた曹操と信

 

ところで、三皇と五帝とは一体何のか気になった方もいると思います。

彼らは神話時代に活躍した帝王であり、

実はそれぞれが誰なのかは定まっていません。

 

書物によって三皇・五帝とされる人物は異なるのです。

 

三皇は『史記』の三皇本紀では

伏羲(ふっき)女媧(じょか)・神農の三人としながら、

天皇・地皇・人皇の3人であるという説も記しています。

 

また、同じく『史記』の秦始皇本紀では三皇を天皇・地皇・泰皇としています。

これについて『史記索隠』という注釈書を編んだ唐の司馬貞(しばてい)は、

泰皇とは人皇であると注を付したり、

天皇・地皇・人皇の2人の皇帝の前に泰皇が存在していると注を付したりしているようです。

 

その他、後漢の班固(はんこ)は『白虎通義(びゃっこつうぎ)』で

三皇のメンバーは伏羲・神農・祝融(しゅくゆう)の3人であるとしたり、

西晋の皇甫謐(こうほすう)は伏羲・神農・黄帝(こうてい)の3人であるとしたり、

三皇についてはあらゆる説がはびこっています。

 

しかし、そのカオスは三皇だけではありません。

五帝についてもあらゆる説が立てられています。

 

『史記』の五帝本紀では

黄帝・顓頊(せんぎょく)(こく)・堯・舜の5人が

五帝であるとされていますが、

『易経』では伏羲・神農・黄帝・堯・舜の5人、

『礼記』では

太昊(たいこう)すなわち伏羲・炎帝すなわち神農・黄帝・少昊(しょうこう)・顓頊

の5人が五帝とされるなど、

やはり書物によって異なっている様子…。

 



『史記』の中で生じる矛盾

執筆をする陳寿

 

ところで、皆さんはもうお気づきと思いますが、

『史記』の中で三皇についての解釈が

地味に食い違っているという問題が発生しています。

 

三皇本紀と秦始皇本紀で

三皇として挙げられている人物が違いますよね。

 

三皇本紀では伏羲・女媧・神農

もしくは天皇・地皇・人皇が三皇であるとされているのに、

秦始皇本紀では天皇・地皇・泰皇が三皇とされているこの問題…。

 

でもまぁ、その矛盾も秦始皇本紀に付された司馬貞の注を読めば、

なんとなく納得できるような気もしてくる…。

 

司馬遷もちょっと疲れていたのかな?

と思われた方もいるかもしれませんが、

実はこの三皇本紀は司馬遷が著したものではありません。

 

この三皇本紀は、

『史記』に注を付した司馬貞によって補われたものなのです。

 

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司馬貞が三皇本紀を補った理由

司馬貞

 

司馬貞は三皇本紀の序文で次のように断りを入れています。

 

「太史公・司馬遷は自分が生きた時代までの

その歴史のはじまりから終わりまでを文字に起こしたが、

三皇を飛ばして五帝をその歴史のはじまりとしている。

これは『大戴礼記(だいさつらいき)』五帝徳篇を肯定する内容である。

 

また、歴代の帝は皆黄帝の子孫であるため。

黄帝を五帝本紀の筆頭に据えている。

 

事実、三皇について記された書物は少なく、

そのためにわからないことばかりである。

 

それでも、西晋時代には皇甫謐(こうほひつ)という学者が『帝王代紀』を著したり、

三国時代には徐整(じょせい)という学者が『三五暦記』を著して三皇のことを論じている。

 

これらは三皇の存在を証明しうるものであると考え、

今、三皇に関するこれらをはじめとする記述を集めて

三皇本紀を著そうと思う。」

 

司馬貞は五帝の前に三皇が存在していたはずなのに、

それを無視して『史記』を編んだ

司馬遷の姿勢に疑問を持っていたようですね。

 

でも、司馬遷はなぜ三皇の存在を無視したのでしょうか?

 

あくまで史実のみを伝えたかった

史実と演義の兵士

 

司馬貞は司馬遷の姿勢に共感できなかったようですが、

司馬遷が三皇本紀を立てなかったのには

十分すぎる理由があったのでした。

 

司馬遷は、あくまで「歴史書」を編みたかったのです。

 

三皇は司馬遷にとっては遠い昔の話であり、

三皇が実在したことを証明できないと言うことで、

三皇本紀を立てなかったのでしょう。

   

三国志ライターchopsticksの独り言

 

司馬貞には不満を持たれつつも

その存在が証明できないものについては記さない

という司馬遷の姿勢は、

後世でも高い評価を得ることになったのでした。

 

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赤壁の戦い

 
 

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