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【3000文字でわかる】!禁門の変(蛤御門の変)をすっきり解説

この記事の所要時間: 436




 

禁門(きんもん)の変は、桜田門外(さくらだもんがい)の変に続く幕末のエポックメイキングです。

この戦いで八・一八の政変以来弱体化していた長州藩(ちょうしゅうはん)は完全にトドメを刺され

四か国連合艦隊の報復攻撃や、それに続く長州征伐などで窮地に追い込まれます。

京都を大騒乱に巻き込んだこの戦いの結末と、どうして引き起こされたか?

この両方の面について解説していきます。

 

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関連記事:【悲報】天皇に振られた長州藩、八・一八の政変はどうして起きた?

 

 

長州が没落しても朝廷はなおも攘夷だった

公家

 

1863年の8月18日、薩摩藩(さつまはん)会津藩(あいづはん)が中心になったクーデターにより

長州藩は御所の警護から締め出され、同時にもっとも過激な攘夷思想を持つ

七人の公卿(くぎょう)が京都から追放される事になりました。

 

ところが、過激派の公卿と長州藩が去っても朝廷は依然として攘夷(じょうい)でした。

天皇が求めたのは、討幕でも戦争でもありませんが、

具体的に外国を締め出す事を幕府に求めていました。

そこで、幕府は横浜港を再び鎖港し攘夷の実を挙げる事にします。

別に函館や長崎を閉じるわけではないので天皇に配慮したパフォーマンスでした。

 

しかし、一度、開いた横浜港を閉じるのは通商条約を破棄する事であり大問題

下手をすれば戦争を招くと島津久光(しまづひさみつ)伊達宗城(だてむねなり)松平春嶽(まつだいらしゅんがく)等、雄藩は反対

しかし、将軍後見職の一橋慶喜は、あくまでも横浜鎖港を目指したので、

参与会議は紛糾しました。

 

一橋慶喜はこれを強引に進め幕府も横浜鎖港を通達しますが、

諸外国は横浜鎖港に猛反発、幕府は方針を撤回するも

平和裏な鎖港を実現させようと使節団を欧州に派遣する事を急遽決定します。

 

そのような混乱の中で慶喜の出身地の水戸からは急進的な尊攘派天狗党(てんぐとう)

横浜鎖港(よこはまさこう)の実現を願い徒党を組んで京都に向かって進軍を開始

 

長州が下野しても結局、何も決められない幕府と公武合体勢力に諸藩は失望し

再び、水面下で長州藩の復権を願う動きが見られます。

 

 

長州藩内で進発派と慎重派が対立

 

この動きは京都で潜伏活動を行う長州藩士には朗報でした。

チャンスを捉えて国元から京に進発して天皇に直接訴えれば誤解は解けると

来島又兵衛(きじままたべえ)真木和泉(まきいづみ)等は主張します、これを進発論と言います。

 

それに対して、藩主父子が謹慎を申し付けられている現状で兵を率いて

京に入れば、それこそ朝敵(ちょうてき)の汚名を着せられると、桂小五郎(かつらこごろう)高杉晋作(たかすぎしんさく)

久坂玄瑞(くさかげんずい)は反対しました慎重派です。

桂小五郎

 

そんな中で公武合体派の最高指導組織である参与会議が、

一橋慶喜島津久光の不仲を原因として空中分解したというニュースが入ります。

雄藩の大名は兵を引き上げて故郷に戻り、京都に力の空白が生まれました。

これにより、慎重論だった久坂が進発論に回ります。

新選組

 

さらに、6月5日(新暦7月8日)に長州藩士が池田屋で謀議をかわしている所を、

京都の治安組織新選組(しんせんぐみ)が踏み込んで多くの死者と逮捕者を出しました。

この一報が長州に届くと、進発論はさらに勢いづいて慎重論を駆逐し

福原元僴(ふくはらもとたけ)益田親施(ますだちかのぶ)国司親相(くにしちかすけ)の三家老は、

「藩主の冤罪(えんざい)を帝に訴える」ことを名目に挙兵したのです。

 

長州藩は山崎の天王山を本陣として、益田親施、久坂玄瑞、

それに真木和泉のような他藩の浪士隊を600名配置、

宝山には国司信濃や豪傑来島又兵衛などが600名配置され、

伏見の長州屋敷には福原越後(ふくはらえちご)が主力の800名を率いて布陣します。

 

久坂玄瑞は最後まで武力衝突を回避しようと、朝廷に対して長州藩主父子の

名誉回復を願う嘆願書を出し、その事に同情的な藩や公家も多くいましたが、

孝明天皇は、どこまでも強硬派の松平容保(まつだいらかたもり)を擁護し長州の赦免を許さず、

御所の警備の総責任者の一橋慶喜に長州の懲罰を命じたので

結果、武力衝突は回避できない公算になります。

 

久坂はなおも慎重な姿勢を崩しませんが、いきり立った来島又兵衛に

「腰抜け医者は、ここで戦見物でもしておれ!」と捨てセリフを吐かれて

覚悟を決める事になります。

 

【攘夷魂!テロに走ったサムライ達】
俺達尊攘派

 

1864年、旧7月19日未明に戦端が開かれる

 

長州藩の主力は、福原越後の率いる800名でした。

公武合体派の勢力は、3200名でしたが、

十以上の藩がまちまちの装備と人数で統一感もなく

指揮系統も整備されず、戦意も高いとは言えない状態でした。

 

それを見越して福原越後は、弱そうな藩を突破して御所に至ろうとしますが、

大垣藩(おおがきはん)にいきなり榴霰弾(りゅうさんだん)を撃ち込まれます。

 

福原隊もこれに対応して大砲を打ち込み、一度は大垣藩を敗走させますが

宝塔寺門前に至ると街道の両側から砲撃を受け、福原越後は頬に砲弾を受け負傷

これで、福原隊は総崩れになり、長州藩邸に退却しますが、

藩邸はすでに彦根藩(ひこねはん)に砲撃されて炎上し、山崎方面へ退却します。

近藤勇

 

しかし、ここでも新選組近藤勇(こんどういさみ)土方歳三(ひじかたとしぞう)に敗れ、

主力としての役割を果たせませんでした。

 

来島又兵衛、国司信濃、蛤御門で西郷どんと激闘

 

一方で午前二時に進撃した、来島と国司信濃(くにししなの)の部隊600名は、

途中に出現した、薩摩、小田原、松山藩の部隊を軽く蹴散らし

そのまま蛤御門(はまぐりごもん)へと向けて殺到しました。

 

門を守る会津藩兵は奮戦しますが、長州勢の勢いは強く劣勢でした。

しかし、ここに馬に乗った西郷隆盛(さいごうたかもり)率いる薩摩藩兵が援軍に到着し

体制は長州藩不利に傾きます。

蛤御門で西郷どんと激闘

 

特に薩摩藩士、川路利良(かわじとしよし)が放った銃弾が長州の来島又兵衛の腰を

貫通して倒したのは決定打になり、動けなくなった来島は、

短刀で喉を突いて自害、これで国司隊は崩れてしまいます。

 

戦いの途中、西郷ごんも銃弾を足に受けて落馬しますが、

幸い軽症で済み、再び馬上で指揮を取り始めます。

この運の無さも長州の不運でした。

 

久坂・真木和泉隊の絶望的な戦い

 

久坂玄瑞と真木和泉等の浪士部隊600は、午前二時天王山から出撃し

途中、樫原の小泉家で朝食を取り、桂川の渡しを利用して東寺から京都市中に入ります。

しかし、この時点で、来島又兵衛の戦死や福原隊の壊滅の報が届き、

最初から絶望的な気分で堺町御門を攻めます。

 

ところが、越前藩兵が守る堺町御門の警備は堅く、久坂玄瑞と寺島忠三郎(てらしまちゅうざぶろう)

朝廷への単独での嘆願を狙い鷹司邸(たかつかさてい)に侵入しますが、ここを会津藩兵に包囲され

観念した二人は向かい合って相手の胸を刺し自殺しました。

 

真木和泉は敗残兵を連れて、天王山に退却しますが、7月21日に

会津藩と新選組の攻撃を受け、小屋で爆死します。

 

京都は二八、〇〇〇戸が焼け三日三晩燃えた

 

この戦闘で公武合体派の被害は会津、薩摩、桑名、彦根、越前藩などの97名

これに対し、長州藩は単体でも265名の戦死者を出し、浪士隊を含むと

400名を超える死傷者を出しています。

 

また各藩の砲撃による延焼や、会津藩による長州藩士の炙り出しの為の

空き家への放火により京都は大火になり、28000戸が焼け、

火事は三日続いたと言われています。

 

幕末ライターkawausoの独り言

幕末ライターkawausoの独り言

 

禁門の変の敗戦により、長州藩は謹慎状態から天皇に弓を引いた逆臣になります。

これは次の長州征伐に繋がり、一時的に公武合体派の強化に繋がりました。

しかし、孝明天皇の信任が厚い会津と桑名、一橋慶喜の勢力に対し、

慶喜と対立した薩摩藩は、逆に敗れた長州藩に接近する事で一会桑(いっかいそう)

対抗しようと画策するようになります。

 

それは単独では汚名返上がかなわない長州にとっても願ってもない事で

やがて、それは薩長同盟へと繋がっていき一会桑vs薩長の戦いへと

変化していくのです。

 

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kawauso

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三度の飯の次位に歴史が大好き

10歳の頃に横山光輝「三国志」を読んで衝撃を受け
まずは中国歴史オタクになる。
以来、日本史、世界史、中東、欧州など
世界中の歴史に興味を持ち、
時代の幅も紀元前から20世紀までと広い。
最近は故郷沖縄の歴史に中毒中、、

好きな歴史人物:

西郷隆盛、勝海舟、劉邦、韓信、、etc

何か一言:

歴史は現在進行形、常に最新のジャンルです。

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