人が見知らぬ土地に移動する時、必要になるのがガイドです。もしガイドがいないなら、せめて地図は必要でしょう。
地図やガイドがない旅行を想像すれば、スケジュールは立てられず行き当たりばったりの散々な内容になる事は間違いありません。ましてや、行く手に敵が待っている戦争では、地図が無ければ全滅を回避する事も難しいでしょう。そんなわけで、戦乱の連続だった中国では地図が発達する事になります。
この記事の目次
管子にも銘記された地図の重要性
(画像:馬王堆から出土した駐軍図を簡単に写したイラスト)
中国では春秋戦国時代の遺跡から軍隊の陣地、地形の高低や重要な拠点などを描いた実物の地図が出土しています。当初は木簡や絹布に描かれ、時代が下ると絹布と紙に描かれました。前漢末に編纂された政治や軍事についての記述のある管子には、「軍司令官は必ず地図を熟知する必要がある」と前置きし
「地図を見る事で、険しい道や車輪を浸すような水、名山、溪谷、河川、山岳、丘陵の位置、水草、森林、蒲や葦の繁茂の状態、道路の距離、城郭の規模、有名な都市、放棄された都市、土地が耕作に適しているかどうか、全て知る事が出来複雑な地形を事前に把握する事が出来れば、すべて事前に行動して敵を襲撃でき、地の利を失う事もない」と
地図を作製する効能について力説しています。少なくとも2000年前には、軍事用の地図が盛んに作られていた証拠だと考えられます。ちなみに現在、中国で最古とされている地図は、紀元前310年に中山王国から出土した陵墓の平面図だそうで墓の間取り図です。
地震感知器を発明した張衡が地図を改革した
地図はあったとはいえ、後漢の中頃までの地図は縮尺も方格もありません。つまり、当時は見た目のイメージに頼った地図を書いていたのです。私達が小学校の社会科で造る自宅の周辺のような地図が当時のレベルでした。しかし、地震感知器を発明した事で知られる張衡(78~139年)が登場した事で中国の地図は劇的に進歩する事になります。張衡は地図投影法の一つである、正距円筒図法を確立しました。
ザックリ言うと、小学校などにあるメルカトル図法に連なる地図です。この図法は地図の緯度と経度をそれぞれ地図の縦・横にそのまま読み替えた円筒図法で、標準緯線上と縦方向に関して正しい距離です。形としては、地球の球体に円筒形の紙を被せて書かれているので標準緯線から外れると歪みが生じ面積や角度は不正確です。ただ、歪みは世界規模なら大きくなるものの、国内を移動する分には、その歪みは大きくなく、十分実用に耐えます。
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曹操も思わずツイート当時の地図
地図の効用については、曹操も魏武註孫子形編で力説しています。
正しい測量法によって、正確な地形の立体的な全体像をつかんでおけば距離の遠近や面積の広さ敵軍の規模などを即座に判定する事ができる。
ここには、曹操が正確な地図の効用を理解し、その必要性を理解していた様子がうかがえます。曹操が現代にいれば、いかに地図が有用かを思わずツイートしたのではないでしょうか?
中国の地図を確立した晋の裴秀
張衡が確立した正距円筒図法は、西晋に仕えた裴秀により確立されました。彼は、西晋建国時の必要性から、禹貢地域図十八編を作成して西晋の領土の視覚的な把握に努めると同時に、序文に地図作製の準則六体分率、準望、道里、高下、方邪、迂直を示し、方丈図を作成しています。これは、記里鼓車という走行メーター付きの車で大地を測量して作成された地図で、一寸が百里と決められています。以後、中国では17世紀に欧州から新しい地図の知識が伝来するまで裴秀の準則六体に則った地図を作り続ける事になります。
三国志の時代には、正確な地図で戦った
張衡から、裴秀まで100年近くありますが、その間、地図の作成が止まったとも思えず戦乱の時代でもあるので盛んに地図は造られた事であろうと考えられます。それは、張衡の正距円筒図法に則った地図であり、縮尺や方尺を持つ本格的な精度を持ったものだったと考えられるのです。
三国志ライターkawausoの独り言
当時の地図は、今のように単色ではなく、平面的な表現をカバーする名目で様々な色使いで描かれたようです。例えば、戦略上のポイントである城郭や都市は、黒や朱色で縁どりして見落とす事がないように工夫されていました。もしかすると、河は水色、葦や蒲は緑で塗られていたのかも知れませんだとすると、今よりもずっとカラフルな地図で、三国志の将軍たちは戦略を練っていたのかも知れませんね。
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