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三国志細かすぎる知識シリーズ皆が持っていた手版

2018年7月13日


 

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聖徳太子

 

 

聖徳太子(しょうとくたいし)が手に持っている細長いしゃもじのような板は(しゃく)と言います。読み仮名は本当はコツですが、日本ではコツは骨に通じて縁起が悪いとしてシャクと読み替えるようになりました。あれも中国から伝わったのですが、三国志の話ではあんまり見ませんよね?

 

じゃあ、三国志の時代には笏はないのかというと実はちゃんとあるのです。今回は細かすぎて需要がない三国志と笏について解説します。

 

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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そもそも笏って何ですの?

笏

 

笏は全て君主の前で事務を奏上する時に用いられました。元々、笏とは、メモ帳の代わりであり臣下は笏に命令を記述したり、その日、やらないといけない事を書いていたのです。笏はそういうものですから、余程、記憶力が高い人以外には、必需品だったのです。笏はメモ帳として、では筆はどうしたのでしょう?

 

 

笏

 

 

 

実は筆は耳に挟んでいたそうです。競馬場の親父が鉛筆を耳に挟むようなものですね。晋の時代には、笏の上に皮袋を付けて中に筆を入れるという筆携帯型の笏もあったのだそうです。笏の語源は、君主の命令や、その日の仕事を(たちま)ちの間に書きつける(こつ)が、笏に転じたとも言われています。周の時代には、家の中でも父母に仕える時には大帯に笏を差して父母に言われた用事を書き留めて漏れがないようにしました。

 

三国志の人々が一見、笏を持っていないように見えるのは、帯の背中に差していて見えないだけかも知れません。

 

 

身分によって材質が違う笏

白い象に乗っている木鹿大王(南蛮族)

 

笏は上は天子から士まで等級によって材質に違いがありました。天子が使う笏は珠玉、諸侯の笏は象牙(ぞうげ)、大夫は竹の両側を(さめ)のヒゲで飾り士は竹製ですが、周辺を象牙で縁取りしてよいとされました。しかし、象牙は削って使えるとしても、天子の珠玉は一度書いたら、もう削れないような気がします。

 

玉璽

 

 

もしかすると、天子の笏は儀礼的なモノだったかも知れません。笏は長さが二尺六寸ですから78センチ、幅は一番広い中央で三寸、9センチだと記録されています。

 

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■古代中国の暮らしぶりがよくわかる■

古代中国の暮らし図鑑

漢晋の時代には手版と呼ばれた笏

凌統

 

漢晋の時代には、笏は手版(しゅはん)と呼ばれるようになりました。この時代には長官に拝謁(はいえつ)する時に使っていました。三国志の話にも、呉の凌統(りょうとう)が一万余りの精兵を率いて山越の割拠する県内を通過する時に手版を手に県長を訪問し(うやうや)しく一礼したとあります。手版を奉じる作法は両手で鼻の先に手版を捧げ持つので、自然に背中が丸まり敬虔(けいけん)な姿勢になるのです。

 

趙高

 

 

後漢の末に、仲常侍の唐衡(とうこう)の弟に唐玹(とうげん)という人物がいて、兄の威光で虎牙都尉(こがとい)に任命され傍若無人に振る舞い京兆尹(けいちょういん)廷篤(えんとく)に手版も持たずに挨拶無しで門を通過しようとしました。しかし、京兆尹の功曹の趙息(ちょうそく)は強直の士で、唐玹を叱りつけて無理やりに手版を持たせて廷篤に拝謁させています。京兆尹も県長も長官に違いはありませんから、当時は県や郡を通過する時には、長官を訪問して手版を捧げるという礼儀のあった事が知れるのです。

 

 

手版は武器?夏侯纂の頬をぶった秦宓

 

県長に対して礼儀を示す手版ですが、同時にこれを投げ捨てるのは憤りなどを示す意思表示になりました。後漢の范滂(はんぼう)が清流派官僚として名高い陳蕃(ちんばん)に会った時、恭しく手版を捧げて礼を尽くしたのに、引き留めもしないので立腹した范滂は手版を投げ捨てて官を退いたという話があります。

 

項羽に反抗する陳平

 

 

また、呉の使者としてやってきた傲岸な張温を博識でやり込めた秦宓(しんふく)は、広漢太守の夏侯纂(かこうさん)の知遇を受けて、仲父(ちゅうほ)(叔父さん)と尊称されました。しかし、秦宓はそう呼ばれるのを嫌がり、病気で寝ているときに、折詰弁当(おりづめべんとう)を持って見舞いにやってきた夏侯纂が仲父と呼ぶのを「私を仲父と呼ぶのは止めて下さい」と言いながら持っていた簿()で夏侯纂の頬をペシペシ叩いたと言われています。

 

そもそも、秦宓は少々、傍若無人な所のある人物で、この時も、見舞いに来た上役の夏侯纂を見ても寝たままで体も起こさないという態度ですから、簿で夏侯纂の頬をペシペシする程度はやりそうです。

 

杜預

 

 

ここで出ている簿は手版のようなものであると西晋の杜預(どよ)が記録しているので簿は手版、笏と同じものと考えていいかと思います。

 

 

 

三国志ライターkawausoの独り言

三国志ライターkawausoの独り言

 

 

非常に細かすぎる三国志の時代の人々の持ち物、手版について解説しました。こんな知識、どこで使えばいいのか困るかも知れませんが、創作の三国志小説に反映させれば、少しリアリティが上がるのではないでしょうか?

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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