幕末において、ひときわ異質な光を放っている藩が長州藩です。
御所に大砲を打ち込んだり、率先して攘夷を実行して外国船を砲撃したり
幕末を1クラスに例えると完全なトラブルメーカーな長州藩ですが、
一体、どうして、ああなってしまったのでしょうか?
ざっくりと、その理由について解説してみます。
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この記事の目次
源頼朝のブレーン大江広元を祖にする長州藩
(画像:大江広元 Wikipedia)
長州藩の祖である毛利元就の先祖は、鎌倉幕府の初代将軍、源頼朝のブレーンで
朝廷に仕えていた大江広元の4男、大江季光だそうです。
しかし、鎌倉幕府の成立に尽力した大江氏も、季光の時代に執権北条氏に逆らい
敗北してしまい、季光の4男の経光以外の一族がことごとく滅びます。
ただ、同族の長井氏の尽力で経光は越後と安芸の守護職を安堵されました。
こうして、経光は長男には越後の所領を譲り四男の時親に安芸の所領を譲ります。
ところが時親の時代に建武の新政が起こり、鎌倉幕府にも後醍醐天皇方にも
与しなかった時親は領地を没収されてしまいました。
その後、時親の曾孫にあたる毛利元春が北朝方の今川貞世に味方して、
南朝討伐に功績を挙げ、安芸の吉田郡山城に落ち着きました。
これが、戦国毛利氏の始まりという事になります。
理由1毛利元就時代から皇室と結びついていた
(画像:毛利元就 Wikipedia)
戦国初期の毛利氏は、国内の内紛と山名氏、大内氏、尼子氏のような
強力な戦国大名に挟まれた弱小大名でした。
しかし毛利元就が登場すると時勢を読んで、大内氏と尼子氏を滅ぼしていき、
安芸、周防、長門、備中、備後、因幡、伯耆、出雲、隠岐、石見
山陰、中国地方、十ヵ国を領有し120万石の強大な大名に成長します。
さらに毛利氏は、先祖の大江広元の頃から、朝廷とのパイプがあり、
元就は戦乱で凋落し即位の儀式も行えない正親町天皇の為に、
銅銭二千貫文を献金して無事に即位させる事が出来ました。
このように毛利氏は先祖からの繋がりで朝廷と太いパイプがありました。
ですが、この事が後々の暴走の伏線になります。
理由2西軍の総大将になり幕府とパイプが築けなかった
毛利元就の死後、後を継いだ孫の輝元は羽柴秀吉に攻められて窮地に落ちますが
そこで本能寺の変が勃発、秀吉は慌ただしく毛利氏と和睦して明智光秀を討ち
輝元は織田政権の後継者になった秀吉に従い領地を保障されました。
ところが秀吉が死ぬと五大老だった毛利輝元は西軍の総大将にされてしまい
関ケ原の合戦に敗北、120万石あった領地は大幅に削られ周防と長門の二か国、
36万石になってしまいます。
その後、毛利氏は外様大名として、それなりに丁重に扱われますが、
賊軍の総大将だった事もあり、薩摩の島津氏のように将軍家と縁組するような
チャンスは訪れませんでした。
幕末には、外様大名もある程度、国政に参加する機会が与えられ、
薩摩、土佐、宇和島、越前のような雄藩から大名が参加して
参与会議も開かれますが毛利氏はその中には加わっていません。
考えてみると参与会議に出ているのは、篤姫を徳川家定に輿入れして
徳川と縁続きの島津、譜代大名の松平春嶽、関ケ原で東軍だった土佐の山内氏
宇和島の伊達宗城は養子で幕臣旗本の家から出ています。
いずれも徳川となんらかの縁続きで、長州にはないアドバンテージがあり
その負目が長州藩をして、増々朝廷に接近させたと考えられます。
理由3公家と直接交流する事で心理的な距離が近づいた
幕府に近づけない以上、勢い長州藩はパイプのある朝廷に傾倒する事になります。
多くの長州藩士が京都に向かい、それまで国政に関与した事のない若い公家に
尊皇攘夷思想を吹き込む事になりました。
それでも初期は、同藩の穏健派の長井雅樂が提唱する公武合体論と親和性の高い
航海遠略策を引っ提げて朝廷に接近した長州藩でしたが、
さらに過激に幕府に政治改革を迫り攘夷派と見られた島津久光が上洛して、
巷の尊王攘夷派の人気をさらうと、勢い長州藩は、より過激な即時攘夷を唱え
求心力を取り戻すしかありませんでした。
ここで筋金入りの倒幕派、吉田松陰の弟子である久坂玄瑞や高杉晋作が暗躍し
長州藩は航海遠略策を公式に撤廃し、長井雅樂は切腹、
本格的な尊皇攘夷に突っ走り始めます。
この時、長州藩士は京都に押し込まれ何も知らない若い公家達に、
熱心に尊皇攘夷思想を吹き込みました。
これで260年ぶりに政治に目覚めた少壮の公家達は朝廷に新設された
国事御用掛などの政庁で過激な議論を吐くようになり、
穏健派の公家を抑え込みます。
1863年の8月18日には、薩摩藩と会津藩が組んで、長州藩を追い払う
八・一八の政変を起こしますが、どこまでも長州藩に同調する攘夷派の公家、
三条実美、三条西季知、四条隆謌、、壬生基修、東久世通禧、
錦小路頼徳、澤宣嘉は外出禁止の禁を破って
長州藩兵に守られて山口に落ちていきます。
七名もの公卿が長州藩士に同調して都落ちするようなケースは
他の藩では見られません。
つまり長州藩士は政治的にも精神的にも若手の公家に結びついてしまい、
それが明治維新まで繋がる原動力になったのです。
幕末ライターkawausoの独り言
このように長州藩は当初から正親町天皇に献金して即位させるなど
朝廷との結びつきが強く、江戸時代以降は西軍の総大将を引き受けた事で
徳川幕府との仲が悪く、薩摩のように幕府とも朝廷とも等距離という政治は
出来ない状態になりました。
それが幕末に過剰な程の朝廷寄り、反幕府、尊王攘夷に長州が傾いた
大きな原因になったという事は出来るかと思います。
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