【武田鉄矢に怒られろ!】坂本龍馬は本当はこんな人だった?


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坂本龍馬

 

NHK大河ドラマ西郷(せご)どんでは、小栗旬(おぐりしゅん)さんが演じる土佐の快男児坂本龍馬(さかもとりょうま)

幕末が好きな方は、大体、そらで大まかに龍馬の人生を語れるのではないでしょうか?

今さら、kawausoがメジャーな坂本龍馬を語ってもアレですが、

最近は色々、新事実も出てきているので武田鉄矢(たけだてつや)に「こらっ!」と怒られそうな

坂本龍馬を解説してみます。

 

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天保6年土佐の富裕な郷士坂本家に生まれる

 

坂本龍馬は1836年の11月15日、土佐の郷士(ごうし)坂本八平(さかもとはちへい)の次男として生まれます。

長男は権平、姉は千鶴(ちづる)(えい)乙女(おとめ)がいて龍馬は末っ子でした。

元々、坂本家は商家で質屋、造り酒屋、呉服商を営み郷士株を買って侍身分になりました。

竜馬というのは通商で(いみな)直陰(なおかげ)、後に直柔(なおなり)と改めています。

 

漫画などでは、寝小便垂れのアホの子として描かれますが、寝小便については、

当人が手紙で認めているものの、具体的なアホエピソードはないようです。

ただ、実母が龍馬10歳の頃に病死しており、その精神的ショックで寝小便や、

学問に身が入らないという事はあったかも知れません。

主な教育は姉の乙女が引き受け龍馬を鍛えましたが、実は龍馬の視野を広めたのは

漫画にはあまり出ない、父八平の後妻、伊与の前夫の実家、川島家のようです。

 

ここには、土佐藩の御船蔵があり、長崎や下関から西洋情報などがもたらされ

龍馬はここで世界地図など海外の文物に触れて強い関心を持ちます。

もちろん、龍馬が勝海舟(かつかいしゅう)の屋敷で地球儀を見て、世界の広さに驚いたという逸話は

創作に過ぎません。


江戸で黒船を見た龍馬の感想・・

江戸で黒船を見た龍馬の感想

 

龍馬は1848年から5年間、日根野弁治(ひねのべんじ)の道場に通い小栗流の目録を受けます。

どうも、この小栗流、剣術だけでなく柔術のような格闘術も教えたようです。

ここで目録を受けた龍馬は、1853年に自費での江戸遊学を認められて

1年間の期限付きで、溝渕広之丞(みぞぶちひろのじょう)と共に遊学しました。

 

龍馬は、当時の人としては大柄で身長は低いとしても169センチ、

高い方を取ると180センチ近かったと言われ、

色も黒く筋骨逞しい青年だったそうなので、当時からかなり目立ったでしょう。

 

江戸では、築地の土佐藩邸で寄宿しながら、桶町の千葉定吉(ちばさだきち)道場に通い、

同時に当時の武士の必修科目、山鹿流軍学を若山勿堂(わかやまこつどう)に学びます。

龍馬が小千葉道場に通い始めた六月、ペリーの艦隊が浦賀にやってきます。

 

自費遊学の龍馬も急遽、土佐藩下屋敷の防衛に駆り出されました。

龍馬は黒船の一件を手紙で家族に知らせているので、

確実に黒船を見たと証明できる幕末の人物だと言われています。

 

ただ、漫画などでは、黒船の巨大さと不思議さに強い関心を持ち、

黒船が欲しい等と発言して周囲の顰蹙(ひんしゅく)を買ったという逸話が出ますが、

これも創作であり、実際の手紙では、「異人の首を討ち取って帰ります」と

当時の尊王攘夷(そんのうじょうい)思想の若者と大して変わらない感想を書いています。

佐久間象山

 

その後、龍馬は佐久間象山(さくましょうざん)の私塾五月塾(さつきじゅく)にも入門していますが、

象山は間もなく、吉田松陰(よしだしょういん)の密航を幇助(ほうじょ)した罪で逮捕され塾は閉鎖し

龍馬もあまり関心がなく塾を辞めてしまったようです。

 

激動の幕末維新を分かりやすく解説「はじめての幕末はじめての幕末

 

土佐に帰り河田小龍からアメリカの情報を得る

ジョン万次郎

 

1854年の8月、龍馬は十五か月の遊学を終えて土佐に帰ります。

故郷に滞在中に龍馬は日根野弁治道場の師範代を勤めるなど

かなり柔術と剣術を修めたようです。

また、この頃、ジョン万次郎の取り調べをした河田小龍(かわだしょうりゅう)と知り合い、

国際情勢を学び、海運の重要性を学びました。

同時に海援隊隊士になる、近藤長次郎(こんどうちょうじろう)長岡健吉(ながおかけんきち)を紹介されます。

龍馬は、オランダ語と砲術も徳弘孝蔵(とくひろこうぞう)に学んでおり、

どうも、勝海舟を殺しに行ったというのは、これを見ると

勝海舟のホラか記憶違いのようです。

 

つまらん事で死ぬな、従兄弟を逃がした龍馬の性格

坂本龍馬

 

1855年、龍馬の父の八平が死去、家督は長兄の権平が継ぎました。

龍馬はさらなる江戸遊学を藩に申請して1年間の許可を得ました。

この時にも、土佐藩邸の中屋敷に寄宿しましたが、ここには大石弥太郎(おおいしやたろう)

武市半平太(たけちはんぺいた)もいて交流を深めていきます。

一年の遊学では足りなくなった龍馬は藩に願い出て一年間江戸遊学を延長

小千葉道場でも剣の修業に打ち込み、北辰(ほくしん)一刀流長刀目録を受けます。

しかし、これは北辰一刀流の初等目録で、漫画などで言われる

北辰一刀流免許皆伝というのはフィクションです。

 

それなら龍馬は弱かったのかというと、そうとも断定できず、

長州で年下の藩士に簡単に負けたという話も、

小千葉道場に来た常州(茨城)の剣士と他流試合をする為に、

竹刀を造っているという家族への手紙もあります。

ただ、北辰一刀流の免許皆伝ではない事は確かです。

 

この頃、龍馬の従兄弟の山本琢磨(やまもとたくま)が酒に酔った勢いで他人の金時計を盗み

質に入れると言う事件を起こし、士道に泥を塗ったとして切腹を命じられます。

しかし龍馬は「こんな事で死ぬのはつまらんき」と言って、

武市半平太等と協力して琢磨を逃がしました。

盗みは悪い事ですが、それでも切腹はないだろうという龍馬の合理的な

考えと人情味がある性格が現れています。

 

土佐勤王党のメンバーに加入

山内豊信

 

土佐藩は、藩主の山内豊信(やまのうちとよのぶ)が開明的な面を持ち、吉田東洋(よしだとうよう)を登用して

藩政改革を行うなどで注目され、阿部正弘(あべまさひろ)に目をかけられ幕政に関与します。

勢い豊信も阿部正弘と同じく14代将軍に一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)を担ぐ運動に参加しました。

ところが、井伊大老(いいたいろう)が就任して安政の大獄が起きると豊信は、

幕政に口を出したとして処分を受けて隠居させられ、養子の豊範を藩主とします。

 

しかし、豊信は実際には後見として権力を維持し続けていました。

これは、島津久光(しまづひさみつ)が息子の忠義を藩主にして自分は後見人として

権力を奮ったのと構図は似ています。

暗殺される井伊直弼

 

山内豊信を処分した大老井伊直弼は、尊攘派の激しい恨みを買い、

登城する直前に桜田門外で水戸藩の浪士などに襲撃され殺害されます。

これにより尊攘派は息を吹き返し、土佐藩でも郷士階級に尊攘思想が

急速に高まっていきます。

 

やがて、公武合体派が多い上士階級と尊皇攘夷派が多い郷士が対立

永福寺事件などが起き白札郷士の武市半平太が中心となり

土佐勤王党が結成され、坂本龍馬も参加します。

 

ところが、土佐藩の藩論は上記の通り上士と郷士で真っ二つであり

藩論の統一は無理、藩に失望した龍馬は遂に脱藩、

あくまで一藩勤王にこだわる武市半平太と距離を取るようになります。

これは龍馬ばかりでなく、多くの土佐藩の郷士がそうであり、

彼らは長州藩に味方して多くが幕末の風雲の中で倒れていきました。

 

一方の武市半平太は非常手段として藩の重鎮、吉田東洋(よしだとうよう)を暗殺、

同時期に長州藩等、尊王攘夷派が勢いを伸ばしていた事もあり、

遂に土佐藩の藩論を尊皇攘夷にまとめる事に成功しました。

 

kawa註どうして土佐藩の身分区別は厳しいのか?

 

 

土佐藩は、上士と郷士で身分に厳格な差がありました。

それは関ケ原の戦いで東軍についた山内一豊(やまのうちかずとよ)が西軍についた

長曾我部盛親(ちょうそかべもりちか)の領地を家康から与えられたからです。

 

掛川藩5万石の山内氏は、元々の家臣を引き連れて土佐に入り

圧倒的多数の元長曾我部氏の旧臣に君臨する必要から

自分達を上士とし長曾我部の旧臣を郷士として厳格な身分差をつけ

領地の統治を円滑にしようとしたわけです。

 

これにより、郷士の上士に対する恨みは募っていきます。

また、上士は山内豊信以下、参政の吉田東洋から上士一般まで

幕府と朝廷を合体させて政治を運営する公武合体でしたから

勢い、郷士は幕府を倒し朝廷を中心として雄藩で政権を運営する

尊皇攘夷に染まりやすかったのです。

 

 

江戸で勝海舟に会い海軍操練所の塾頭になる

江戸で勝海舟に会い海軍操練所の塾頭になる

 

龍馬の脱藩は1862年の3月です。

当時、島津久光は討幕の為に上京すると思われていたので龍馬も、

尊攘派の一員として仲間と共に兵を挙げるつもりでした。

ところが、島津久光は異母兄弟の島津斉彬(しまづなりあきら)とは違い幕府の改革には賛成でも

討幕などとんでもないという公武合体論者であり、

もちろん尊攘派の蜂起など許すわけもなく寺田屋に集結していた薩摩藩士を

粛清してしまいます、これが寺田屋事件です。

島津久光

 

こうしてみると、この頃の龍馬は倒幕に息巻く諸藩の志士と同じように

決起を企んでいたようです。

宛てが外れた龍馬は、各地を渡り歩き同年の8月には江戸の小千葉道場に

寄宿する事になりました。

 

この江戸で龍馬は、長州の久坂玄瑞(くさかげんずい)高杉晋作(たかすぎしんさく)と交流を持ちます。

そして、何より龍馬の名前を世に出す手伝いをしたのは道場主の千葉定吉でした。

福井藩の剣術師範をしていた定吉は、松平春嶽(まつだいらしゅんがく)と知人であり

龍馬は定吉の伝手で松平春嶽と面会できたと言われているのです。

 

春嶽は龍馬に海軍奉行並(かいぐんぶぎょうならび)の勝海舟への紹介状を持たせています。

龍馬はこの紹介状で海舟と面会し、その後門人になったのです。

よく漫画などに出てくる、龍馬が勝海舟を斬りに行ったが

逆に海舟に説得されて逆に弟子になったという逸話は

海舟の回想録にもありますが、どうも誇張か思い違いのようです。

 

しかし、正式に海舟の弟子になった事は龍馬にとって天の配剤でした。

軍艦奉行並の勝は、全国の大名とも対等格の付き合いです。

国際情勢もどんどん入ってきます。

あまり弟子は取らないものの、面倒見のよい海舟は山内容堂に面会し

坂本龍馬の脱藩の罪を許してもらい、同時に神戸に開く予定の

海軍操練所に入れてやると言ったのです。

 

「日本は第一に海軍を興さないといけねえ、

それには軍艦を買うのもいいが船を動かす人材を養成しないといけねえのさ

なに、軍人にならないにしても蒸気船を操縦できれば商売を興すにも有利だ

どうだい龍馬、おめえも入らねえか?」

 

と言ったかどうかは分かりませんが、龍馬はこのアイデアに飛びつきます。

しかし、神戸海軍操練所は、まだ海舟の頭の中だけの構想であり

龍馬は海舟の私塾の設立資金として松平春嶽に二度もお金を借りにゆき

海舟は、家茂が京都にやってくる機会をとらえて家茂を軍艦に乗せて

大阪の海を見せるなどして海軍の重要性を説く等、猛烈PRを行い

1864年の5月に神戸に海軍操練所は完成、海舟も軍艦奉行に昇進しました。

 

龍馬は海舟の私塾の塾頭になりましたが、これは龍馬が藩の帰国命令を無視し

二度目の脱藩をしてまで塾の創設に尽力した手柄も含まれるでしょう。

 

禁門の変の煽りで海軍操練所は閉鎖、龍馬天下の孤児に

京都御所

 

ですが、海軍操練所の設立までに龍馬には悲しい事がありました。

1863年8月18日、薩摩藩と会津藩(あいづ)が共同して京都から長州藩の勢力を追放する

八・一八の政変が勃発、求心力を失った尊攘派は没落します。

これを見て、しばらく大人しくしていた山内容堂(豊信)が土佐勤王党の弾圧に転じ

龍馬の仲間の郷士も大勢処刑されました。

土佐勤王党の盟主の武市半平太も投獄され、1865年の5月に切腹します。

 

坂本龍馬、おりょうと結婚

 

ただ、この期間、龍馬には嬉しい事もありました。

1864年の5月、龍馬は楢崎龍(ならさきりゅう)と出会い、やがて結婚する事になります。

お龍は芸事は上手ですが家事は苦手という奔放な性格でしたが、

龍馬はそれを責める事がないので、相性は善かったようです。

海軍操練所の建設と共に、龍馬は海舟と蝦夷地(えぞち)開拓の構想も持ちます。

黒船

 

「狭い京都で尊皇だ佐幕だといがみ合い、あたら若い命を散らすのは惜しい

そういう血気盛んな若者を集めて蝦夷地の開拓と通商に当たらせよう」

 

そんな構想を考え、幕府老中の水野忠精に相談すると、

尊皇攘夷派の厄介払いが出来るならと賛同し人数も200名、

資金も3~4000両も集めていたようです。

 

しかし、同年の6月に起きた池田屋事件で事態は一変しました。

池田屋事件では長州藩士だけでなく、土佐藩士も新選組と斬りあいをし

戦死しており、蝦夷地開拓に賛同していた志士達も激高してしまい

計画から抜けてしまったのです。

新選組

 

おまけに、間もなく長州藩の軍勢3000が京都に迫り、薩摩や会津、

越前のような公武合体派の藩と激突する禁門の変が起きました。

これで、長州藩の勢力は徹底的に減少したと共に、

前後に各地で起きた蜂起で、大勢の志士が若い命を散らしたのです。

 

さらに海舟の私塾に入っていた土佐の安岡金馬(やすおかきんま)が禁門の変で長州藩に与し

望月亀弥太(もとづきかめやた)北添佶摩(きたぞえきつま)は池田屋で長州藩士との謀議に参加し

新選組に斬られていた事なども発覚し幕府は操練所を廃止しました。

海舟も軍艦奉行をクビになり江戸に帰ってしまい、

坂本龍馬は塾頭でもなくなり天下の孤児になってしまうのです。

 

龍馬、薩摩の小松帯刀に拾われ亀山社中を興す

小松帯刀

 

1864年の8月中旬、お龍と祝言をあげたばかりの龍馬は

海舟の紹介で西郷吉之助(さいごうきちのすけ)と面会します。

この時の龍馬の西郷を評価した名言が

 

「西郷は釣鐘のようだ、大きく叩けば大きく響き、小さく叩けば小さく響く

もし利口なら大きな悧巧で、莫迦なら大きなバカだろう」です。

西郷隆盛

 

面倒見のよい海舟は自分が江戸に帰る前に薩摩の城代家老の小松帯刀(こまつたてわき)

龍馬達、私塾の塾生の面倒をお願いしていました。

 

当時の薩摩は海軍力強化に乗り出しており、龍馬達のような航海術保有者を

抱えるのは有益だろうと考えて、その身柄を引き取ります。

こうして、孤児として天下に放り出されるのを免れた龍馬ですが、

薩摩はそればかりではなく、1865年5月頃、龍馬に出資して亀山社中(かめやましゃちゅう)を興させます。

これが日本最初の株式会社、後の海援隊(かいえんたい)です。

ビジネスマン坂本龍馬

 

実は、この構想は海軍操練所の設立時からの目標でした。

実際に商売を行って利益を上げると同時に航海の経験も積むという一石二鳥

いかにも抜け目がない海舟らしい考えです。

 

かくして坂本龍馬は航海術の習得に励みつつ、海運業を行いながら、

自活の道を模索していく事になります。

 

有名な薩長同盟は坂本龍馬の手柄ではなかった?

坂本龍馬を交えた西郷隆盛の薩長同盟

 

亀山社中は元々、純然とした商社だけではなく裏の目的がありました。

禁門の変で関係最悪となった薩摩と長州を再び結び付けて、

武力で幕府に対抗できるようにするというのがそれです。

禁門の変では勝ち組に残った薩摩ですが、最強の敵である長州が消えると

一橋慶喜は、会津や桑名藩と手を組んで一会桑を結んでしまい

薩摩をハブしようと考えたのです。

 

長州藩は、禁門の変で敗北した後に、四か国艦隊の砲撃を受けて、

城下が火災に見舞われると同時に砲台を破壊され、

そこに、長州征伐の15万の軍勢がやってきて降伏していました。

しかし、その後で高杉晋作が60名余りの同志と決起して

数千の幕府恭順派を打ち倒して再び長州藩の藩論を倒幕に変えます。

高杉晋作

 

それに対して、幕府は再び長州征伐の軍を興そうとしますが、

薩摩藩は幕府を見限り、長州と結ぼうと考え出兵を保留したのです。

ですが、長州にゴキブリのように嫌われている薩摩が交渉の表に立てば

まとまる話もぶち壊しになるに決まっています。

 

そこで、第三者であり禁門の変では長州軍に参加して心証もよい

土佐藩の坂本龍馬の手を借りようと考えました。

 

もっとも薩長同盟は坂本龍馬の発案ではなく、

それ以前から、中岡慎太郎(なかおかしんたろう)土方久元(ひじかたひさもと)のような土佐藩士が

なんとか実現させようと奮闘していたのです。

中岡慎太郎

 

龍馬はそれに加勢する形で大村藩の渡辺昇に薩長同盟の意義を説き、

練兵館時代からの桂小五郎(かつらこごろう)の友人である渡辺は桂にその事を告げます。

 

長州としても士気だけは高いですが、武器と弾薬を購入する事も出来ず

誰も味方がいない状況で戦争になるのは避けたいですし、

薩摩藩が長州征伐に加わらないだけでも軍事的メリットがありました。

 

西郷と桂の会見は、当初、下関で行われる予定でしたが、

直前で西郷がドタキャンして京都に向かい交渉は決裂してしまいます。

日本の船

 

しかし龍馬や中岡は諦めず、亀山社中は薩摩藩名義でミニエー銃やゲーベル銃を

グラバー商会から買付けて長州に売って心証を善くし、また大久保一蔵が

薩摩藩は正当性のない勅命には従わず長州征討には参加しないと明言した

書簡を長州の広沢真臣に届けるなど、長州藩の信頼を得る為に腐心します。

 

それ以外にもイギリス軍艦ユニオン号を長州に売り、運用は亀山車中で行う等

着々と実績を積み重ねていきます。

 

この甲斐もあり、1866年の1月8日、小松帯刀の京都屋敷において、

西郷隆盛と桂小五郎は会談を持ちます。

その後、面子の問題による紆余曲折はありましたが同月1月22日に

六か条からなる盟約が締結されました。

 

この間の坂本龍馬の働きについては、独自のものでもなく、

西郷などに促された結果であるとして高く評価しすぎという声もあります。

 

しかし、龍馬が亀山社中を挙げて実績作りをして、

長州藩の反薩摩感情を和らげたのは、それが薩摩藩の依頼としても

両藩を結び付けてやりたいという龍馬の感情無しには出来ないでしょう。

 

船を失い土佐藩の外郭団体海援隊になる

船を失い土佐藩の外郭団体海援隊になる坂本龍馬

 

薩長同盟からまもなく、寺田屋にいた龍馬は伏見奉行所に場所を特定され、

夜中に踏み込まれます、同じ場所には長州藩士、三吉慎蔵もいて、

三吉は長槍で応戦、龍馬はピストルで応戦して幕吏二人を射殺します。

 

ですが、相手は多勢で龍馬は指を斬られて出血、屋根づたいに逃げていき

龍馬は材木置場に潜伏、三吉は旅人に扮して伏見の薩摩藩邸に逃げ込み

救援を要請して龍馬も無事に救助されました。

 

kawa註

 

 

この寺田屋事件ですが、幕吏に居所が知られたのは、

坂本龍馬の不用心のせいかも知れません。

というのも寺田屋の主人お登勢(とせ)の幼い娘二人は龍馬に(なつ)

龍馬は、お化けの話などをして娘二人を喜ばせていたと言うのです。

娘の笑い声が外まで響くのでお登勢が血相を変えて階下から

「静かにしないと幕府に居場所を知られますよ」と注意しても

龍馬は平気で「そん時はそん時じゃ」と笑ったそうです。

こんな不用心ぶりでは、やはり龍馬のせいで

踏み込まれた可能性も否定できないでしょう。

 

龍馬の指の傷は深く治りが遅いので、

西郷吉之助は自分もよくやっていた薩摩の霧島温泉での湯治を勧めます。

これを受けて龍馬は、妻になったお龍を連れて1866年2月29日に

薩摩藩船三邦丸で薩摩藩に向けて出発し、3月10日から83日逗留します。

これが日本最初のハネムーンと言われていますが異論もあります。

 

薩摩から戻って5月、海援隊に不幸が襲います。

薩摩藩から借りていたワイルウェフ号が海上で遭難し沈没

乗組員池蔵太等12名が水死したのです。

 

ユニオン号は、最初から長州藩からのレンタルで、この頃に返還が決まり

こうして船が無くなってしまった亀山社中を気の毒に思った薩摩が

太極丸(たいきょくまる)を亀山社中に貸し出すなどしますが、その頃の亀山社中の財政は

相次ぐ事故で借金まみれの火の車でした。

 

ピンチになった亀山社中を拾ったのが龍馬が脱藩した土佐藩でした。

さすがに長州征伐の失敗で公武合体の不可能を悟った藩では、

後藤象二郎(ごとうしょうじろう)を長崎に派遣して武器弾薬を買いあさっていました。

 

溝渕広之丞の仲介を通して龍馬と会った後藤象二郎は意気投合し

龍馬は二度目の脱藩の罪を許され、亀山社中も土佐藩の外郭団体として

吸収されていき、名前も海援隊と改めたのでした。

 

kawa註 藩を越えた多国籍企業になった海援隊

海援隊旗

 

海援隊の活動目的は、土佐藩の援助を受けながら、

土佐藩士や藩の脱藩者、海外事業に志を持つ人間を引き受けて

運輸、交易、開拓、投機、土佐藩を助ける事などで

純然たる商社ではなく、海軍と商社を合わせたような性格です。

従業員は、土佐藩士、紀州藩士、長岡藩士などに水夫を加えた50名

さらに思想も雑多で討幕派もいれば小谷耕造のように佐幕派もいました。

 

隊士の多くは討幕派なので小谷を嫌いましたが、龍馬は

「佐幕派の一人も入れられん程に了見が狭くてどうする」と擁護し

小谷は特に龍馬に心服していたようです。

海援隊は、日本で初めて藩の垣根も思想も超えた商社だったのです。

 

 

いろは丸事件の収拾でタフネゴシエイターぶりを見せる

 

海援隊結成から間もなく、海援隊が大洲藩から借りていたいろは丸が、

瀬戸内海鞆の浦沖で紀州藩の蒸気船明光丸と衝突、

いろは丸は大きく損傷し沈没します。

 

これは、いろは丸の方が航海ランプもつけず、見張りも立てないで

おまけに明光丸の進路妨害までしていたのですが、龍馬はここで万国公法を持ち出し

手前勝手に有利な法律を選び出して賠償金交渉を進め、また紀州藩が

大藩である事を逆手に取り、大藩が弱小な海援隊をイジメて

事件を揉み消そうとしていると世論に訴えるなどして、大いにPRしました。

 

結果、外聞を気にした紀州藩は賠償金の支払いに応じ、積んでもいない、

いろは丸の積み荷を含めて7万両を支払う事になります。

 

大政奉還の大事業に関与する

徳川慶喜

 

1867年、6月自体は風雲急を告げていました。

すでに薩摩と長州は武力討幕の野心を隠しませんでしたが、

越前の松平春嶽や、薩摩の島津久光は、なおも公武合体による事態収拾を考え

京都では四侯会議が開かれていました。

しかし、すでに徳川家の将軍となり、艦隊や陸軍の強化を成し遂げた慶喜は

春嶽や伊達宗城、山内容堂の意見に耳を貸す気はありません。

 

その頃、龍馬は船中八策を起草します。

内容は、天皇を中心とする中央集権国家の樹立や、上下二院による議会制度

近代に合わせた制度の改革、不平等条約の改正、陸海軍の創設、通貨の整備

そして憲法の制定でした。

 

龍馬はこのプランを後藤象二郎に提示し、後藤象二郎はこれを容堂に上申します。

ところが、この頃、武力討幕を目指した乾退助(いぬいたいすけ)谷干城(たにかんじょう)等は、

私的に西郷や小松帯刀等と薩土密約を結びました。

山内容堂もこれを了承、さらに後藤は龍馬の船中八策のプランを元に、

西郷や小松、大久保利通(おおくぼとしみち)と大政奉還からの王政復古を目指す薩土盟約を結びました。

 

要するに大政奉還に慶喜が応じない可能性を考えて平和裏な大政奉還と

武力討幕の二つのラインを同時に走らせたわけです。

しかし、平和裏な方法としての大政奉還プランは薩土の思惑があわず

薩土盟約は、僅か二か月で崩壊してしまいます。

 

しかし、どうしても徳川幕府に弓を引く気になれない山内容堂は、

大政奉還プランを捨てきれずに、後藤を二条城に登城させて、

老中板倉勝静に大政奉還のプランを上奏しました。

 

龍馬は、このプランに懸けていた節があり、もし慶喜が拒否したら

下城する慶喜を待ち受けて斬るという脅迫めいた手紙を後藤に出し

後藤にも「しくじれば腹を切ってくれると信じる」と重圧をかけています。

 

徳川慶喜は、すでに薩長に討幕の密勅が下りているという情報も掴んでおり

この矛先を回避する為に、大政奉還を受け入れて、政権を返上します。

ここに、263年続いた徳川幕府は名目上滅亡したのです。

 

京都近江屋で無念の最期

京都近江屋で無念の最期

 

徳川慶喜がまさかの大政奉還を行った事により、

薩長が得ていた幕府討幕の密勅は無効になり無期延期となります。

龍馬は戦争が回避された事を喜び、早速、新政府の職制案を戸田雅樂(とだうた)に起草させます。

 

有名な逸話ではこの頃、海援隊士だった陸奥宗光(むつむねみつ)の回想として、

龍馬の名簿が新政府にない事を訝しんだ西郷隆盛(さいごうたかもり)

「では、あなたは役人にならずに何をしなさる?」龍馬に聞いた時に

「あしは世界の海援隊をやる」と答えた事になっています。

 

しかし、戸田はいくつか新政府の職制案を書いているようで、

その中には参議として龍馬の名前があるモノも無いモノもあるようです。

どうやら流動的な時勢を見て、戸田は問題回避の為に複数のプランを

持っていたようです。

 

坂本龍馬は1867年、11月15日、午後八時頃、河原町の蛸薬師で

醬油商を営む近江屋新助宅の母屋の二階で中岡慎太郎と密談中

十津川郷士を名乗る数人の男に襲われ深く額を斬られて脳を損傷

それが致命傷となり死亡します。

 

中岡慎太郎は、その後しばらくは生きていましたが、二日後に死去

誰が龍馬を殺したか?は幕末最大のミステリーとして今でも、

様々な犯人説が登場しては歴史好きの興味を引いています。

 

坂本龍馬は自分の顔写真を配って歩いた

(画像:坂本龍馬が名刺代わりに配ったとされる写真Wikipedia)

 

坂本龍馬と認められる写真は現在までに6種類あるようです。

当時には、もう焼き増しの技術があったようで、

同タイプの写真が出てくるので6種類という事になっています。

坂本龍馬は交友関係が広いですが、実際に彼は自分の顔写真を

名刺代わりに配って歩いたという話があるのです。

実際に龍馬には背景を塗りつぶしたバストアップの写真があり、

これが名刺代わりに配った写真なのだとか

 

「あしが坂本龍馬じゃ、あんじょうよろしう頼むぜよ」

そう言いながらホイホイ配ったのでしょうか?

今の顔写真入りの名刺に通じるような発想ですが、

後に幕府に指名手配された事を考えると、随分間抜けな事を

してしまったとも言えますね。

 

教科書から消える坂本龍馬?

 

実は、坂本龍馬が歴史教科書から消えるかも知れないそうです。

大きな理由は薩長同盟や大政奉還のような従来、龍馬の手柄とされた事が

実際には補助的な役割でしかなく、特筆するような事ではないからだとか

しかし、メインの役割を果たしたのではなくても、

坂本龍馬が仲介して、様々な人々の関係が繋がり、

薩長同盟、大政奉還に繋がったのも、また事実です。

メインの人々しか教科書に載せてはいけないなら、

その成功者たちの裏で歴史の大事業を支えた龍馬のような人々は

残らず消えてしまうのでしょうか?

とても残念な気がします。


どこまでも自由と孤独に耐えた坂本龍馬の名言

 

坂本龍馬には虚実入り混じる多くの名言がありますが、

確実に当人が言った言葉として、

義理などは夢にも思ふことなかれ身をしばらるるものなり

というものがあります。

 

これは義理などに心を奪われるな、自由を奪われるぞという意味で

ちょっと見ると身勝手な感じに思えます。

しかし、それは龍馬の生きた時代を知らないからです。

幕末は江戸時代の因習が260年降り積もった時代であり、

主従関係や親子関係、夫婦関係というしがらみが、

人間の人生を縛って当たり前の時代でした。

 

義理を理由に人間関係にどっぷりつかり、

何事もなさずに空しく人生を終えるのは楽です。

しかし、新しい時代では、そのようなぬるま湯を出て

自分の力で自分の責任で運命を切り開かないといけない

龍馬はそう考えて、義理に縛られるなと言ったのです。

これは、何かというと周囲の力関係を見て

過剰に忖度してしまい、オカシイと思う事でも許してしまう

言いたい事も言えずに泣き寝入りしてしまう

現代人にも痛烈に刺さる言葉でしょう。


  

 

幕末ライターkawausoの独り言

幕末ライターkawausoの独り言

 

坂本龍馬の事を書いて思うのは、師匠の勝海舟にも劣らぬ交友の広さです。

彼はメインでやった仕事は少ないですが、幕末の様々な事件、

第二次長州征伐、薩長同盟、大政奉還、等々に関わっていました。

この交友関係の広さこそが、彼をメジャーにした第一の要因でしょう。

 

もう一つは龍馬を悪く言う人間があまりいない事です。

龍馬は色黒で毛深く、目は近眼の為に、やぶ睨みでしたが、

笑い顔になんとも愛嬌があり、細かい気配りが出来る人でした。

その為に女子供にとても好かれていたそうです。

 

毎日、殺伐とした毎日を生きる維新志士の中で、龍馬は例外的に

周囲に暖かい雰囲気を与える人だったのであり、

その分、龍馬について多くの証言が残ったのでしょうね。

 

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