孔子十哲の中で文学の才ありと称される子夏。文学といえば詩や小説なんかが得意だったのかな?と思ってしまいますが、その当時の文学はそういった文芸のことを指し示す言葉ではありませんでした。文学とはすなわち知識!
知識が豊富な人が「君は文学の才があるね」と言われていたのです。どうやら博識であったらしい子夏。彼はなぜ博識であると称されたのでしょうか?彼に関するエピソードをいくつかピックアップしてその謎を解き明かしていきたいと思います。
『詩経』を読むなら子夏と
五経の1つに数えられる『詩経』は、孔子によって編まれた詩集であると言われています。孔子はその当時の民草が口ずさんでいた民謡から宮廷行事の歌、そして朝廷の祭祀の際に謳われた歌に至るまではば広く集め、その中でも選りすぐりの300篇ほどの歌の歌詞を1つの書物としてまとめたのでした。
音楽を愛した孔子は、曲を奏でることも大切にしていましたが、それと同じかそれ以上にその歌詞を大切なものであると考えていました。そんな孔子は度々弟子たちと歌詞について言葉を交わしているのですが、その中には子夏の姿もありました。
「巧笑倩たり、美目盼たり、
素以て絢を為す」
という笑顔の口元が愛らしく目元が美しい女性がおしろいを塗るという詩の意味について、子夏は孔子に教えを乞います。これに対して孔子は「絵でいえば白い粉で後仕上げをするというようなものだ」と答えます。すると子夏は何かにピンときたらしく、「相手に対する思いを礼で表現して後仕上げするということでしょうか?」と即座に聞き返します。孔子は子夏の言葉に大変感心し、
「私を啓発してくれるのは子夏だ。
ようやく詩をともに語るにふさわしい者を得たよ」
と大絶賛したのでした。(『論語』八佾篇)自分さえ気づくことができなかった詩の解釈を閃いた弟子・子夏に対し、孔子は一際輝いた目を向けたことでしょう。
孔子の言葉がわからない…そんなときは子夏に聞こう!
ある弟子が仁について尋ねたところ、「人を愛することだ」という返答を得ました。しかし、あまりにも抽象的で理解できない様子の弟子。その様子を見た孔子は「正しい人を邪な人の上につければ、邪な人を改心させることができる」と付け加えます。
しかし、かえってチンプンカンプンになってしまった弟子は仕方なく退出し、子夏に孔子の言葉について尋ねます。孔子の言葉を聞いた子夏は次のように答えました。「実が詰まった言葉だね。かつて舜が皐陶を抜擢した際には、仁ではない者が遠ざかっていった。殷の湯王が天下を得たときにも、大勢の臣下の中で伊尹を抜擢したから仁ではない者たちが遠ざかっていったのだ。」(『論語』顔淵篇)
抽象的でわかりにくい孔子の言葉に肉付けして見事わかりやすく解説してみせた子夏。瞬時に具体例を挙げて説明する子夏は、まさに弟子たちにとって生き字引のような存在であったことでしょう。
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けっこう悲観的な子夏
博識で弟子たちからも頼りにされていた子夏ですが、けっこう悲観的な側面もあったようです。『礼記』によると、子夏は子どもを失くしてしまったことにより、悲しみのあまり失明してしまったのだとか。その後子夏は不幸な我が身を嘆きながら家で泣き暮らしていたのですが、ある日、子夏を心配した同門の曾子が訪ねてきます。
曾子に対してもやはり「なぜ自分だけがこんなに不幸なんだろう…」と漏らす子夏。
すると曾子は次のように叱咤したのでした。「不幸なのはあなただけではない!同じく子を失った妻や、兄弟を失った子たちをずっと放っておくとは何事だ!」一気に目が覚めるような思いをした子夏は「私が間違っていた…」と反省したのでした。一時は悲劇のヒーローになり下がっていましたが、学友の言葉で目を覚ますことができた子夏。持つべきものはやはり友ですね。
三国志ライターchopsticksの独り言
ちょっぴり、いえ、かなり打たれ弱い子夏ですが、孔子が発する少ない言葉から多くのことを得る力は他の弟子たちと比べても相当優れていたようです。
そんな彼は魏の国で文侯の師として教鞭を振るい、さらには後に兵法家として名を馳せた呉起などにも孔子の言葉を伝えたと言います。子夏に教わった者たちはきっと幸せだったことでしょう。あの小難しい孔子の言葉を具体的にわかりやすく教えてもらえたのでしょうから。
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