遠い遠い昔、
中国には堯という名の天子がありました。
彼には息子がありましたが、
思うところがあって、
臣下に次期君主にふさわしい人を推薦させました。
そこで挙げられたのが舜。
舜は生まれこそ良くないものの、
生まれ持った性質の良さで
家族を悪の道に堕落させないように導いている
徳の高い人でした。
彼に興味を持った堯は、
自分の娘2人を彼に嫁がせた上、
数年政を任せます。
舜は民を慈しみ、
見事な政を行いました。
これに満足した堯は
舜を後継者に選んだのでした。
これが、世に言う「禅譲」というものです。
四書にも数えられる『孟子』では、
その堯舜の禅譲の素晴らしさが説かれています。
ところが、それを好き勝手に解釈する輩が現れたのです…。
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外戚でありながら貧乏だった王莽
前漢第11代皇帝・成帝には、
王莽という従弟がいました。
王莽は成帝の母方の親族。
すなわち、成帝の外戚に当たりました。
しかし、王莽は外戚ではありましたが、
貧しい生活を送る少年でした。
彼が他の外戚のように
豪華絢爛な暮らしを送ることができなかったのは、
彼の父親や兄が諸侯に封じられることなく
早くに亡くなってしまったためと言われています。
そんな不幸な外戚・王莽少年は、
自分の身の上を嘆いてグレるようなこともなく、
むしろ夫に先立たれた哀れな母と兄嫁を大切にし、
質素倹約につとめながら勉学にも励む苦学生でした。
長年の努力が実を結ぶ
良い年になっても
うだつが上がらない王莽でしたが、
人に尽くす恭しさは相変わらずでした。
伯父である王鳳が病に臥した際にも、
王莽は熱心に看病を続けました。
王鳳は王莽の看病に大変感激し、
また、これほど恭倹でありながら
見出されない不遇さを憐れみ、
成帝に王莽に便宜を図るよう口添えします。
これにより、
王莽はとんとん拍子に出世していったのでした。
天にも復帰を求められた!?
そんな王莽にもライバルと言える人物がありました。
王莽と同じように王鳳を熱心に見舞ったことによって
王鳳の信頼を得た淳于長という男でした。
彼は王莽と同じく皇帝の外戚でしたが、
倹約家である王莽とは正反対とも言える性格の持ち主で、
妻や妾を数多くはべらせ、
贅沢三昧の暮らしをしていました。
そんな淳于長は成帝に廃されていた許皇后から賄賂を受け取り、
許皇后を再び後宮に返り咲かせるよう画策します。
ちょうどその頃、
淳于長は大司馬・王根にも一目置かれており、
次期大司馬は淳于長だと人々に囁かれていました。
ところが、王莽が2人の企みを嗅ぎ付けます。
王莽はこれをすぐさま王根と皇太后・王政君に報告。
2人は激しく怒り、淳于長は官位を剥奪されてしまいます。
うまくライバルを蹴落とした王莽は、
見事大司馬の位に収まったのでした。
しかし、その喜びもつかの間、
今度は哀帝の祖母及び母と対立。
王莽は大司馬の位を剥奪されてしまいます。
ところが、王莽を中央に呼び戻すべきだとの声が上がります。
王莽復帰のラブコールが宮中で響く中、
なんと今度は日食で太陽までもが隠れる騒ぎに。
これに驚いた朝廷は王莽を中央に呼び戻したのでした。
仮皇帝を名乗る
哀帝は美青年・董賢に愛を傾けていました。
その溺愛ぶりは弱冠の董賢に大司馬の位まで授けてしまうほど。
そんな哀帝は董賢に禅譲すると言って
璽綬を董賢に託して崩御。
ところが、そんなことが許されるはずもなく、
璽綬はあっけなく王莽の従兄弟である王閎に奪還されます。
王莽はこれに乗じて平帝を擁立し、
自らも再び大司馬の位につきます。
彼はその頃、儒家の経書と
経書をスピリチュアルに解釈した緯書を駆使して
人々の心を鷲掴みにしていました。
邪魔者は何だかんだと理由をつけて
自殺させたり遠ざけたりして
さらに力を蓄えた王莽は、
自分の娘を平帝の皇后に立てます。
その後、病弱な平帝が夭逝したことを好機とし
摂政として皇帝の政を代行。
自ら仮皇帝を名乗ったのでした。
ついに天命を授かる!?
王莽は「仮」ではなく「真」の皇帝になりたいと考えます。
そして、自分の正統性を裏付けるために
経典に都合のいい解釈をつけ始めたのです。
ところが、そんな無茶苦茶な彼を後押しするかのように、
王莽が皇帝になることを予言する符讖が現れます。
これ幸いと王莽は
自らが天命によって禅譲を受けたとし、
皇帝を名乗って新を建国したのでした。
三日天下とは言わないまでも…
儒学の祖・孔子は周王朝の善政を理想としていました。
王莽はそれにならって周代の政を行おうと息巻きます。
ところが、経書を都合良く解釈していた王莽には
儒教の真髄を見出すことはできておらず、
時代錯誤な政策を打ち立ててはことごとく失敗。
結局、「漢が良かった!」と
眉毛を漢王朝のトレードカラーである赤に染めた民衆たちが蜂起。
都・長安に反乱軍が攻め入り、
王莽は無惨に殺されてしまいます。
新王朝はわずか1代、
15年でその幕を降ろしたのでした。
※この記事は、はじめての三国志に投稿された記事を再構成したものです。
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