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明智光秀は悪人だったのか?

2018年11月5日


 

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明智光秀

 

 

明智光秀の生い立ちを辿ってみよう』では、あまり知られていない明智光秀の青年期から足利義昭の家臣になるまでの経緯を取り上げました。今回は、明智光秀が織田信長と出会い、足利と織田の家臣となってから室町幕府が滅亡するまでの経緯を取り上げます。この間に光秀は主君を裏切るという経験をし悪人のレッテルを貼られる事になります。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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足利家と織田家の家臣になった明智光秀

織田信長

 

 

明智光秀は織田信長に出会った後、信長は上洛と足利義昭の将軍擁立を果たしました。信長が上洛(じょうらく)すると、明智光秀は足利義昭と織田信長の家臣となりました。大河ドラマなどで、当時の明智光秀は朝廷と信長の間に立っていたという印象を受けた人がいると思います。

 

何度も織田信長と対立する朝倉義景

 

1570年、織田信長は金ケ崎の戦いで朝倉義景(あさくらよしかげ)と戦っていました。浅井長政(あさいながまさ)は朝倉義景と織田信長の間でそれぞれ同盟を結んでいましたが、浅井長政は朝倉義景との同盟を重視して、織田信長を裏切りました。浅井長政の裏切りで織田軍は危機に陥り、撤退しました。明智光秀は豊臣秀吉(とよとみひでよし)とともにしんがりを務め、信長を守ることに成功しました。

 

 

 

足利義昭と決別した明智光秀

第三次信長包囲網(織田信長、石山本願寺、武田勝頼、毛利輝元、上杉謙信)

 

足利義昭と織田信長は対立するようになりました。足利義昭は全国の大名に信長を討つように命じました。命じられた主な大名は中国地方の毛利輝元、甲斐の武田信玄など信長の所領を包囲するように命令をしたことから「信長の包囲網」と呼ばれています。大名以外では、大阪で一向一揆を起こしていた石山本願寺も含まれます。

 

織田信長と本願寺顕如(石山合戦)

 

1571年に石山本願寺が挙兵すると、明智光秀は足利義昭と織田信長の軍に加わります。その年の9月に比叡山延暦寺の焼き討ちで武功を上げました。この頃、光秀は近江国の所領を信長から与えられ、坂本城の築城に取りかかりました。坂本は比叡山延暦寺の門前町として栄えた町です。以降、光秀は近江国の坂本を拠点とします。

 

光秀は坂本を拠点にしてから足利義昭と決別することを決めました。1573年、足利義昭が兵を挙げます。この時から織田信長の家臣として義昭と戦いました。かつて主君と仰いだ足利義昭を切って上り調子の信長についた事で時機を見るに敏で狡猾(こうかつ)な悪人の明智光秀を感じ取る人もいるかも知れません。

 

義昭は槇島城の戦いで敗れると、京を追放されました。足利義昭が追放されたことにより室町幕府は滅びました。光秀は信長の家臣として京都の行政を担当します。この頃から惟任日向守(これとうひゅうがのかみ)となりました。大河ドラマなどでは、信長が光秀を日向守とか惟任日向守と呼ぶようになります。確かに義昭を裏切り室町幕府を実質滅ぼしたものの、京都の治安を任されるなど光秀には有能な行政マンの一面がある事も見逃せないでしょう。

 

 

戦国時代ライターオフィス樋口の独り言

三国志ライター オフィス樋口

 

今回は明智光秀が織田信長と出会い、足利と織田の家臣となってから室町幕府が滅亡するまでの過程を取り上げました。足利義昭と織田信長との関係が良好であればよかったのですが、次第に対立するようになると足利と織田の家臣だった明智光秀はどのように感じていたのか気になります。

 

現代では上司と部下の間に入って板挟みになっている中間管理職みたいな感じがします。2020年の大河ドラマ『麒麟(きりん)がくる』で、主役で明智光秀役の長谷川博己(はせがわひろき)がこの板挟みの状況をどのように演じるのか楽しみにしたいと思います。明智光秀は織田信長の家臣になると豊臣秀吉(とよとみひでよし)とともに有能な家臣として歴史上で注目されるようになりました。大河ドラマなどでは光秀と秀吉が出世で競っていたシーンを思い出す人がいるかもしれません。

 

後に光秀は信長をも裏切り、本能寺の変を起こすので、二度も主君を裏切り、滅ぼす事に加担した悪人という見方も成立するかも知れませんが、光秀に限らず、当時の戦国大名は生き残りの為に裏切る事は日常茶飯事でした。その中で光秀がことさら悪人に見えるとすれば先の将軍と天下人候補という否応なく目立つ人物を裏切った事が目立つからだとも言えるでしょう。

 

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オフィス樋口

自己紹介:フリーランスで予備校の講師をしています。 歴史が好きで、予備校では主に日本史を指導しています。 センター試験の点数を40点台から80点台に伸ばした実績があります。 好きな歴史人物:徳川慶喜(理由:多趣味であることが共通しているから)

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