三国志の中でもダメ君主の代表格としてその名を挙げれば必ずトップ3に入る劉禅。そんなダメ君主・劉禅の父は三国志の英雄として名高い劉備で多くの名言を残した人物です。劉備が英雄なんだからもしかしたらダメ君主と言われてバカにされている劉禅だってみんなが知らないだけすごい人物なのかもしれません。
そこで今回は劉禅の名言から彼が本当はダメ君主だったのか。それともダメ君主と言われているのはただの風聞で、本当はすごい名君だったのか。ちょっと探ってみたいと思います。
劉禅の名言から探ってみる!!
「政治は葛氏に任せる。私は祭祀を行おう」この名言は正史三国志蜀書劉禅伝にある魏略に書かれている劉禅の言葉です。劉禅は諸葛亮を丞相に任命した際に諸葛亮へ述べた言葉です。劉禅の言葉の中でも名言と呼べる部類の言葉だと言えるでしょう(正史三国志劉禅伝にはほとんど劉禅の言葉が載っていないため)。今回はこの劉禅の名言から彼の事を探ってみたいと思います。
斉の桓公ばりの名君だった劉禅!?
ここでちょっと劉禅の話から逸れますがご容赦ください。みなさんは斉の桓公という君主をご存知でしょうか。この人物は三国志よりももっと前の時代に登場した中国古代の国・斉を治めた人です。
桓公が君臨した斉の国はあまり強くない国でしたが、ある人物に国政を任せた事で国を大きく拡大することに成功。桓公が起用したある人物とは管仲です。管仲は桓公から宰相として起用されると政治改革を次々に行っていき国力増加に成功し、斉の国が中華の覇者として君臨するほどの大きな国へと成長することになるのです(詳しい話はいずれその内)。
ついでにこの管仲ですが、三国時代の名宰相として名高い諸葛亮が目標とした人物の内の一人です。すいません話が長々と続いてしまいましたが、どうしてレンは桓公と管仲の話を出したのか。それにはしっかりと理由があります。それは劉禅が桓公ばりの名君であることを強調したかったからです。
国政を全て諸葛亮に預けた名君主・劉禅
劉禅は劉備の跡を継いで皇帝の位に即位した時、自らは政治のなんたるかを知りませんでした。そのため劉禅は皇帝に即位すると諸葛亮を丞相の位へ任命。その後劉禅は諸葛亮へ
「政治は葛氏(諸葛亮の事)に任せるよ。僕は政治が分からないから祭祀(皇帝の先祖達を祀る事)をやるよ」と言って諸葛亮に国政を任せてしまいます。普通の君主であれば劉禅のようなやり方は絶対にしません。なぜしないのか。
それは家臣が国政の全てを取り仕切ってしまうと全ての権力を自分に集めることができ、君主を追放して自分の国を建てることができるからです。他にも自分に権力を集める事によって政治をやりたい放題することができるからです。このため国政を家臣へ任せっきりにすると国が衰弱したり滅んでしまったりしてしまいます。このように大きな弊害を生んでしまうので普通の君主は家臣に国政の全てを任せてしまうようなことをしないのです。
しかし劉禅は自己診断を行い、政治を行うことができない事を知っていたため諸葛亮に国政の全てを委ねて任せてしまうのです。劉禅の決断はかなり思い切ったやり方ですが、この決断のおかげで蜀の国は国力を高めることに成功するのです。まさに名君・桓公が管仲に国政の全てを任せたやり方と同じ方法を取ったと言え、劉禅が桓公に匹敵するほどの名君と呼べるのではないのでしょうか。
三国志ライター黒田レンの独り言
劉禅の幼少期は阿斗と呼ばれていましたが、成長してダメ君主となってしまったため、どうしようもない人物=阿斗と後世に残ってしまうほどの人でした。そんな劉禅ですが、諸葛亮死後も有能な人材である蒋琬らに政治を委ねることで国政を衰弱させることなく、蜀の国を大国・魏から守っていくことに成功しています。これらの事から劉禅は古の名君主・桓公と同じ決断ができ、名君であった証左と言えると思うのですが、皆様はどのように思いますか。
■参考 正史三国志蜀書・魏略等
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