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明智光秀の逸話を紹介!

2018年11月9日


 

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明智光秀

明智光秀

 

明智光秀(あけちみつひで)といえば武芸に秀でて才能のある織田信長(おだのぶなが)の家臣であり、本能寺(ほんのうじ)の変で信長を裏切り、自害させた悪人という印象を受けると思います。今回は明智光秀の知られていない部分として、伝えられている人柄や才能について取り上げます。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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明智光秀は文武両道!

銃を構える明智光秀

 

明智光秀は学問と武芸ともに優れていたといわれています。越前の戦国大名朝倉義景(あさくらよしかげ)の家臣になるきっかけとして、光秀が考えた一揆鎮圧のための作戦が的中したことが挙げられます。光秀の特技が鉄砲で、当時はポルトガルから輸入されたばかりでした。日本にあまり出回っていなかったのですが、数少ない鉄砲の名人として驚かせたという逸話が残っています。

 

意気投合する明智光秀と織田信長

 

足利義昭(あしかがよしあき)と織田信長の家臣になると、知識と交渉能力が高く評価され、連絡役として活動しました。室町幕府滅亡後、織田信長の家臣となりますが、戦いで敗走したのは1回だけといわれています。ただし、山崎の戦いは除きます。1581年に、京で京都御馬揃(きょうとおうまそろ)えが行われ、信長から運営のすべてを任されました。京都御馬揃えとは軍事パレードのことを指しますが、プレッシャーのかかる大仕事を成功させました。

 

織田信長に蹴られる明智光秀

 

1582年に、信長から家康饗応役(いえやすきょうおうやく)に任じられますが、饗応役を解かれ、中国地方の毛利攻めに行くことになりました。

 

 

明智光秀は愛妻家

煕子

煕子

 

明智光秀は愛妻家だったという逸話が残されています。光秀は牢人として美濃国に生まれました。光秀には煕子(ひろこ)という妻がいましたが、光秀が貧しい頃から苦労して支えていました。妻の煕子は婚約した頃に疱瘡(ほうそう)にかかりました。

 

疱瘡にかかると後遺症として失明したり、顔がただれたりすることがあります。妻の煕子については疱瘡にかかった後遺症として顔に(あざ)が残りました。煕子の父はそっくりな妹を代わりに送ろうとしました。光秀はすぐに妹であると見破り、煕子と結婚すると宣言したといわれています。戦国時代において、側室を持つことが普通でしたが、生涯側室を持たずに妻の煕子だけを愛したといわれています。

 

 

 

明智光秀は地元民に愛されていた

 

明智光秀は愛妻家でしたが、政治面でも光秀の優しい人柄を見ることができます。良い政治を行っていたことで領民から支持されていました。また、戦で亡くなったり、負傷したりした家臣に見舞状も送っています。

 

 

明智光秀は江戸時代まで生きていた?

馬に乗り落ち延びる明智光秀

 

明智光秀は山崎の戦いの後、農民らに殺害されたといわれています。南光坊天海は天台宗の僧で、徳川家康の右腕として働いていました。また、当時としては珍しく、天海は100歳以上生きたことで有名です。

 

忙しくて過労で倒れる明智光秀

 

光秀は農民らに殺害されたという説が有力ですが、首などの遺体が見つからなかったという点で確定した説ではありません。光秀は生き延びて、南光坊天海となり、家康に仕えていたという説があります。この説については、偶然生まれた年が近いこと(光秀1528年、天海1536年)や後に大奥を作った春日局(かすがのつぼね)が光秀の姪であることなど共通点があるだけで、根拠としてあり得ない話となります。

 

 

戦国時代ライターオフィス樋口の独り言

三国志ライター オフィス樋口

 

今回は明智光秀の逸話について取り上げました。この記事を通して、本能寺の変の悪人としてのイメージではなく、光秀の人柄が分かりました。光秀は愛妻家で、生涯側室を持たなかったことが分かりました。

 

明智光秀と煕子(麒麟がくる)

 

戦国時代において側室を持つことが普通でしたが、生涯側室を持たなかった戦国武将は少なかったといわれています。明智光秀以外で、側室を持たなかった戦国武将では黒田官兵衛や山内一豊が挙げられます。生涯側室を持たなかった戦国武将に注目したいと思います。

 

部下に優しい明智光秀

 

光秀の人柄は戦いで負傷したり死亡したりした家臣に見舞状を送る点で表われています。歴史秘話ヒストリアでは、戦で死亡した家臣がいると泣いていた織田信長の姿が特集されていました。戦国武将の意外な姿にも注目したいと思います。

 

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黒田廉(くろだれん)

黒田廉(くろだれん)

三國志が大好きです。オススメのマンガは曹操を描いた蒼天航路がオススメです。三國志の小説のオススメは宮城谷昌光氏が書いた三國志です。好きな食べ物はマグロ、ぶり、アジが大好きな猫です。

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