織田信長は、なかなかユニークな人柄だったのかもしれません。武田信玄への書状に、自ら「第六天魔王」と名乗ったのは、信憑性が定かであるかは別としてなかなかインパクトの強いエピソードであり、現在でもたびたびツイッターなどで話題になるほどです。
また、信長は若い頃、桶狭間の戦いで討ち取った今川義元が持っていた刀に「上総守信長」と彫り込んで愛用していました。上総介は、義元のことでしたから、「義元を討ち取った自分が上総守だ」と主張したかったのでしょうか。当時の保守的な考えを持つ戦国大名たちとは一線を画していて、興味深いです。
「岐阜」の名付け親は信長だった
「岐阜」という呼び名は、外国の人からすると発音が難しいのだそうです。たしかに、「東京」を「トンキン」と読んだら、なんだか変な感じがしますよね。実は、この岐阜という名前をそれまでは井の口と呼ばれていた地域に付けたのは、信長でした。
斎藤龍興を破り、美濃を攻略し、土地の名前を改めたのです。当時の人からすると、「ギフ」という呼び方はとても奇妙に感じられたのではないでしょうか?
信長が岐阜で行った楽市楽座は、商業を大きく活性化させました。信長というとどうしても滋賀県の安土城のイメージが強いですが、岐阜も信長の影響を大きく受けた地域だったのです。今でも、JR岐阜駅に降り立つと、黄金の信長像が迎えてくれます。ちなみに、戦国武将が名付け親となり、現在でも使われている都道府県名って他にはあまりないのでは…と思って調べてみたら、ありました。「和歌山」というのは、豊臣秀吉が名付け親なのだそうです。主君である信長が、岐阜と命名するのを知って、「いつか自分も…」と思っていたのかもしれません。
南蛮ファッションを取り入れて
信長は、宣教師のルイス・フロイスが持ってきた異国の衣服を好んで身につけ、「この服は夏に良いようだ」などと言っています。また、正親町天皇を招いて開催された馬揃えでは、南蛮ファッションであるビロードのマントや西洋式の帽子を身につけていたそうです。従来の形式を重んじる戦国大名は、天皇がいる場ではなかなかこのようなことはしなかったでしょう。
しかし、フロイスが言うには、信長はこのような格好がけっこう似合っていたようです。南蛮由来の長いマントを身にまとった信長は、当時の人々の目にどのように映っていたのでしょうか?「かっこいい!」と思い憧れた人もいたでしょうし、「うつけの格好だ」と眉をひそめた人もいたことでしょう。
写真みたいな肖像画が残っているのは珍しい
宣教師の絵師が描いた信長の肖像画があります。戦国時代の人物で、日本画だけでなくこのようなリアルな肖像画が残っているというのは比較的珍しいです。切れ長の目、すっと通った鼻筋、小さめな口、すらっとした体型は、どの肖像画を見ても共通しているので、信長の定番のイメージとなっています。筆者がはじめて安土城跡にある「信長の館」という博物館を訪れたとき、拡大して展示されていた信長の肖像画(宣教師の絵師が描いたもの)を見て、「目元が凛としている」と感じました。
戦国時代ライター星野まなかの独り言
信長のルックスも、信長が後世まで人気の武将である理由のひとつなのではないでしょうか?
冷酷非情で敵将を倒し、革新的な政策を行い、全国統一を進めた織田信長がごく平凡な顔つきであったならば、今日でも信長を題材にしたゲームや漫画などはそれほど登場しなかったのではないでしょうか?ちなみに、最も生前の信長の面影を残しているとされるのは、安土城摠見寺に伝わっていた肖像画で、信長の死後間もないころに描かれたものだそうです。歳を重ねて落ち着きつつも、鋭い目力が印象的な肖像画です。
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