広告

織田信長の逸話を紹介、当時としてもかなりロックな人だった?

2018年11月21日


 

はじめての三国志コメント機能バナー115-11_bnr1枠なし

 

魔王・織田信長

 

 

織田信長(おだのぶなが)は、なかなかユニークな人柄だったのかもしれません。武田信玄(たけだしんげん)への書状に、自ら「第六天魔(だいろくてんまおう)」と名乗ったのは、信憑性(しんぴょうせい)が定かであるかは別としてなかなかインパクトの強いエピソードであり、現在でもたびたびツイッターなどで話題になるほどです。

 

 

織田信長

 

 

また、信長は若い頃、桶狭間(おけはざま)の戦いで討ち取った今川義元(いまがわよしもと)が持っていた刀に「上総守信長(かずさのすけのぶなが)」と彫り込んで愛用していました。上総介は、義元のことでしたから、「義元を討ち取った自分が上総守だ」と主張したかったのでしょうか。当時の保守的な考えを持つ戦国大名たちとは一線を画していて、興味深いです。

 

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


【誤植・誤字脱字の報告】 バナー 誤字脱字 報告 330 x 100



【レポート・論文で引用する場合の留意事項】 はじめての三国志レポート引用について



「岐阜」の名付け親は信長だった

「岐阜」の名付け親は信長だった

 

 

岐阜(ぎふ)」という呼び名は、外国の人からすると発音が難しいのだそうです。たしかに、「東京」を「トンキン」と読んだら、なんだか変な感じがしますよね。実は、この岐阜という名前をそれまでは井の口と呼ばれていた地域に付けたのは、信長でした。

 

城から逃走する斎藤龍興

 

 

 

斎藤龍興(さいとうたつおき)を破り、美濃を攻略し、土地の名前を改めたのです。当時の人からすると、「ギフ」という呼び方はとても奇妙に感じられたのではないでしょうか?

 

楽市楽座(日本史)

 

信長が岐阜で行った楽市楽座は、商業を大きく活性化させました。信長というとどうしても滋賀県の安土城のイメージが強いですが、岐阜も信長の影響を大きく受けた地域だったのです。今でも、JR岐阜駅に降り立つと、黄金の信長像が迎えてくれます。ちなみに、戦国武将が名付け親となり、現在でも使われている都道府県名って他にはあまりないのでは…と思って調べてみたら、ありました。「和歌山」というのは、豊臣秀吉(とよとみひでよし)が名付け親なのだそうです。主君である信長が、岐阜と命名するのを知って、「いつか自分も…」と思っていたのかもしれません。

 

 

南蛮ファッションを取り入れて

ルイス・フロイス

 

信長は、宣教師(せんきょうし)のルイス・フロイスが持ってきた異国の衣服を好んで身につけ、「この服は夏に良いようだ」などと言っています。また、正親町天皇(おおぎまちてんのう)を招いて開催された馬揃(うまそろえ)えでは、南蛮ファッションであるビロードのマントや西洋式の帽子を身につけていたそうです。従来の形式を重んじる戦国大名は、天皇がいる場ではなかなかこのようなことはしなかったでしょう。

 

ルイス・フロイスの書き残した日本史

 

しかし、フロイスが言うには、信長はこのような格好がけっこう似合っていたようです。南蛮由来の長いマントを身にまとった信長は、当時の人々の目にどのように映っていたのでしょうか?「かっこいい!」と思い憧れた人もいたでしょうし、「うつけの格好だ」と眉をひそめた人もいたことでしょう。

 

 

古代中国・超科学の世界に挑戦する HMR

HMR  

 

 

写真みたいな肖像画が残っているのは珍しい

南蛮胴を身に着けた織田信長

 

 

宣教師の絵師が描いた信長の肖像画があります。戦国時代の人物で、日本画だけでなくこのようなリアルな肖像画が残っているというのは比較的珍しいです。切れ長の目、すっと通った鼻筋、小さめな口、すらっとした体型は、どの肖像画を見ても共通しているので、信長の定番のイメージとなっています。筆者がはじめて安土城跡にある「信長の館」という博物館を訪れたとき、拡大して展示されていた信長の肖像画(宣教師の絵師が描いたもの)を見て、「目元が(りん)としている」と感じました。

 

 

戦国時代ライター星野まなかの独り言

戦国時代ライター星野まなかの独り言

 

信長のルックスも、信長が後世まで人気の武将である理由のひとつなのではないでしょうか?

 

織田信長から信頼される滝川一益

 

冷酷非情で敵将を倒し、革新的な政策を行い、全国統一を進めた織田信長がごく平凡な顔つきであったならば、今日でも信長を題材にしたゲームや漫画などはそれほど登場しなかったのではないでしょうか?ちなみに、最も生前の信長の面影を残しているとされるのは、安土城摠見寺(あづちじょうそうけんじ)に伝わっていた肖像画で、信長の死後間もないころに描かれたものだそうです。歳を重ねて落ち着きつつも、鋭い目力が印象的な肖像画です。

 

関連記事:本能寺の変に黒幕はいなかった!衝撃の明智光秀単独犯説

関連記事:【新事実】織田信長は本能寺の変がなくてもオワコンだった!

 

  • この記事を書いた人
  • 最新記事
星野まなか

星野まなか

歴史上の偉人から人生の教訓を学んでいます 好きな歴史人物:諸葛亮孔明、織田信長 何か一言:文献を読むことが好きです。 「はじさん」に関わらせていただけることをとても嬉しく思います。

-戦国時代 (日本)
-