三国志の時代にも市場というものがありました。そこでは、様々なお店がジャンルごとに区分けされて軒を連ねていて、お金さえあれば、様々なサービスを受ける事が出来ました。そこで、今回の「三国志とお金」では、当時の市場にはどんな店があったのか?
何が食べられたのかを紹介致します。
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列肆ごとに区画整理された市
中国の都市は、その設計段階から市場を組み込んでいました。その伝統は戦国時代まで遡るようで、前漢の都長安には九市が存在していたらしい事が張衡の西京賦や漢書の編纂者、班固の記録に出てきます。
もちろん、長安に九市があったのは、長安がとりわけ大きな都市だったからですが、県や郷のような最小の行政単位だと少なくとも一つ、郡なら東西二つの市があるのが普通だったようです。
この市は、列肆と呼ばれ占い師、肉屋、衣服、魚屋、棺桶屋、酒屋、食堂のような商店が、十字の通りを挟んでジャンル別に軒を連ねていました。つまり、一つの通りは、全て同じジャンルの店が並んでいた事になり、これは現在の中国の商店街でも見かける事が出来ます。
市場の食堂ではどんな物が食べられたの?
では、当時の市場の食堂では何が食べられたのでしょうか?
前漢の武帝期に戦わされた世界最初の経済論争である塩鉄論には、人々の外食を嘆く儒者の言葉として以下のような市場の料理の記述が並びます。
1豚肉と韮と玉子の炒め物
2犬の薄切り肉と馬のスープ
3炙った魚と入り肝
4羊の漬け肉と鶏肉の塩辛
5馬乳酒
6羊の胃の煮干
7煮た子羊の肉と豆入り飴
8ひな鳥や雁のスープ
馬乳酒があるのは、これがシルクロードの玄関である長安だからでしょう。羊の胃の煮干(ホルモン風味か?)や犬の薄切り肉は、ちょっと抵抗がありますがそれ以外は概ね、今の日本人でも食べられそうですし、豚肉と韮と玉子の炒め物なんか、朝食にピッタリじゃあないですか?
市場の品物の値段は幾ら?
では、そんな市場の物価はどの程度なのでしょうか?
下記のサイトを参考にしますと、以下の感じのようです。
酒屋の軽食30銭
雑酒 10銭
牛肉 一斤40銭
猪・羊 一斤20銭
占い費用 1回100銭
麻の靴一足30~40銭
シャツ一枚350~700銭
白米一石400銭
※引用サイトはこちらです。
因みに、当時の最下級の役人の月給は600~400銭で当時の庶民の平均年収が6000銭くらいのようです。それで考えると、最下級の役人や庶民でも月に一度位は酒屋で一杯飲んで何か食べて帰るくらいの事は出来そうですね。もちろん、漢の時代を通して物価は変動してますし、大規模な遠征があったり、異常気象で農作物や家畜に被害が出ると、物価は暴騰する事になるので、この限りではありません。
大儲けした外食業の商人達
こうした、外食はかなりの繁盛をしたようです。史記の記述によると、獣脂を商って大儲けした擁伯という人物や、調味料を商って千金を稼いだ張氏、羊の胃や肉ホルモンを担いで売って財産を築いた濁氏の事を記述しています。つまり、当時、食事を家で済ますのではなく、外食で済ませる人が大勢いた事を史記は記しているのです。
三国志ライターkawausoの独り言
いかがだったでしょうか?
後漢の時代というと、ほとんどの人が自給自足だったようなイメージですが、実際には、市場が大きく発達しており、お金があるなら、市場で買い物を済まし余った時間を自身の余暇や生産活動に宛てるような気風が見て取れますね。
三国志といえば、はじ三で全裸男として有名な禰衡も、仕官の為に許に来た時いつまでも有力者に面会しようとしないで、だらだら過ごしているので、ある人が心配して、司馬朗や陳羣を尋ねてはどうかと親切心で聞くと「卿は私を屠(豚の解体業者)や沽(酒売り)の児輩(小僧)に従わせようと言うのか?」と悪態をついた事が魏志荀彧伝に引く平原禰衡伝に見えます。
これを素直に取ると、西暦196年頃の許にも精肉業や酒屋はちゃんと存在し、食堂や酒場も普通に存在していたのではないかと思いますね。
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