司馬朗(しばろう)とはどんな人?司馬懿でさえ頭が上がらない偉大な兄の生涯

2016年7月1日


 

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司馬朗

 

腐っても鯛というように、どんなにだらしがなくても、兄貴は兄貴です。一方で、弟に負けず劣らず兄が優秀で、弟は、兄に頭が上がらないというようなケースも、まま存在します。後に、孫が天下を統一した事で、皇帝位を追贈された司馬懿(しばい)の兄、司馬朗(しばろう)も、そんな立派な兄貴の一人でした。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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司馬朗は、秦末の名将、司馬卭(しばごう)の末裔

王騎 キングダム

 

司馬朗の先祖は、キングダムの時代である秦の末期に登場した司馬卭です。元は、趙で、あの李牧(りぼく)に仕えて、王翦(おうせん)王賁(おうほん)とも戦った司馬卭ですが、李牧が秦の計略で死に追いやられ、趙が滅亡すると、誅殺を恐れて逃亡し、陳勝(ちんしょう)・呉広(ごこう)の乱に呼応して、最初は武臣(ぶしん)に仕え、武臣の死後は、張耳(ちょうじ)に仕えるなどし河内平定などに手柄を立てています。秦滅亡後の項羽(こうう)の論功行賞では、河内の地周辺を与えられ殷(いんおう)に封ぜられます。

 

劉邦

 

その後、司馬卭は、劉邦(りゅうほう)に敗れて項羽を見限って漢に仕えますが、項羽の大軍に劉邦軍が撃破された彭城の戦いで戦死します。司馬朗は、この司馬卭から数えて12代目の子孫です。

 

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司馬朗の父、司馬防は、厳しい人物として有名だった。

司馬朗 司馬防

 

司馬朗の父は、司馬防(しばぼう)と言い、字は建公です。曾祖父、司馬鈞(きん)は、漢の征西将軍にまでなった名将。祖父、司馬量(りょう)は、豫章太守を務め、父の司馬儁(しゅん)は潁川太守でした。そんな名門の家系に生まれたせいか、司馬防は、若い頃から厳格な性格で、どんなにリラックスしている時でも姿勢を崩さず、ぼんやりしている顔を見た人間はいなかったようです。そして、絶えず、立派な人間になろうと努力していたらしく、漢書の名臣列伝を愛読して、すべて、暗誦出来る程でした。そんな努力家の司馬防も、出世し、州郡に取り立てられ、洛陽県令から京兆尹にまで出世しました。京兆尹とは、いわば長安の都知事で、宰相に昇る人間が、その力量を見る為に就任するエリートの出世コースのポストです。残念ながら、防は、腐敗が横行していた後漢王朝では、宰相まで昇れず、騎都尉として勤めを終え、老後は田舎に住み、質素で厳格な暮らしを続けます。

 

子供達にまで厳しい、司馬防

 

そんな司馬防は、子供達に対しても厳格でした。彼には、8名の男子がいて、いずれも優秀で司馬八達と言われましたが、子供達が成人した後も、許可がないと父の部屋に入る事は出来ず、また、許しを得ない限り、口をきく事も出来ませんでした。

 

そんな厳格な父の元、西暦171年、長男として司馬朗は誕生します。司馬防が、我が子をどのように教育したかは、上記の司馬防の性格を、考えると、理解できると思います。司馬朗は、父譲りの厳格で、しかし暖かい性格の持ち主に育ちます。

 

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年齢詐称を疑う試験官に、堂々と反論

司馬朗

 

司馬朗は、十二歳で、経典を暗誦してみせて試験に合格。童子郎(どうじろう)に取り立てられます。しかし、司馬朗の体が大きく、あまりに見事な暗誦だったので、ある試験官は、朗が年齢を詐称しているのではないかと疑い、別室で問い詰めました。

 

「君、怒らないから正直に言いなさい。君は本当は十二歳ではないだろう?十二歳にしては、体が大きすぎるではないか。」

 

この試験官は、司馬朗が、年少で童子郎に取り立てられたという箔をつける為に嘘をついていると思ったのです。すると司馬朗は、堂々と反論します。

 

「我が司馬氏は、代々、大柄な家系であり、私が大きいのも遺伝です。あなたは、私が年齢を誤魔化して、年少でも優れていると宣伝したがっているとお疑いですが、私は元来、出世欲などありません。私は本当に十二歳なので、十二歳と言っているだけなのです」

 

試験官は、果たして、司馬朗が本当に十二歳と知り、疑った自分を恥じました。

 

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暴君、董卓に堂々と意見を述べる司馬朗

司馬朗 董卓

 

西暦190年、洛陽の大混乱の隙をついて、西涼から入ってきた軍閥、董卓(とうたく)は、献帝(けんてい)の後見人として、次第に暴君の本性を現します。当時、治書御史をしていた、司馬朗の父、防は、董卓の暴力政治は、さらに激しくなると見越して、19歳になっていた司馬朗に、一族を連れて、故郷に帰るように命じます。しかし、その事を董卓にチクった人間がいました。怒った董卓は、司馬朗を逮捕して問いただします。

 

「オガッ!!おめえ、故郷に帰るって聞いたけど、本当っぺか?なんして、これからっつー時に、オラを見捨てるような事すんだべ!」

すでに暴君として異様な迫力を持つ董卓ですが、司馬朗は怯えたそぶりもなく堂々と反論しました。

 

「私が故郷に戻るのは、乱世の影響が故郷にも及び、田畑が荒廃して、民が飢え死にするのを黙って見ている事ができないからです」

その堂々とした反論に、董卓はオガッ!と感心しましたが、やはり、故郷に帰還させる事を許しませんでした。

 

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いざという時には賄賂も辞さない度量

司馬朗

 

司馬朗は、その事を知ると、董卓の側近に賄賂をまわして買収。まんまと洛陽の城門から脱出する事に成功します。一族が危ない時には、清廉潔白にこだわらず、計略を使って、道を切り開くというのは、弟の司馬懿にも通じるしたたかさですね。

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kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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