女性について語られる際には
いつの時代もその美しさが話題になります。
『三国志』にも
美しいということで語り継がれる美女たちはたくさんいますよね。
彼女たちの美しさに思いを馳せつつ、
ふとした瞬間にこんなことを考えてしまうという
人もいるのではないでしょうか。
「でも、昔の美人って
今の美人とは全然違うのでは…。」
たしかに、平安時代や江戸時代の美人画を見ても
「美人だな」と思う人は少ないでしょう。
オカメ顔もうりざね顔も
現代の人々にとって美の基準とはなり得ませんよね…。
やっぱり『三国志』に出てくる美人もその例に漏れず
そんなに美しくなかったのでしょうか…?
今回は三国時代の美女の基準について
解き明かしていきたいと思います。
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曹植が詠った美女
三国時代の美女について知るには
その当時の詩文を学ぶのが近道でしょう。
というわけで、
七歩の才を持つと評されている
曹植の「美女篇」を読んでみましょう。
美女妖且閑 美女妖にして且つ閑なり
採桑岐路間 桑を岐路の間に採る
柔條紛冉冉 柔條紛として冉冉たり
落葉何翩翩 落葉何ぞ翩翩たる
攘袖見素手 袖を攘いて素手を見せば
皓腕約金環 皓腕金環を約す
頭上金爵釵 頭上には金爵の釵
腰佩翠琅干 腰には佩ぶ翠琅干
明珠交玉体 明珠玉体に交わり
珊瑚間木難 珊瑚木難に間わる
羅衣何飄飄 羅衣何ぞ飄飄たる
軽裾髄風還 軽裾風に髄いて還る
顧盼遺光彩 顧盼は光彩を遺し
長嘯気若蘭 長嘯すれば気は蘭のごとし
行徒用息駕 行徒は用て駕を息め
休者以忘餐 休者は以て餐を忘る
美女はなまめかしくしとやかだ。
桑の実を分かれ道で採っている。
柔らかい枝が入り乱れて広がっている。
その袖をはらって白い手をあらわにすれば、
やはり白い腕には金の腕輪が結ばれている。
頭の上には金のかんざし。
腰には翡翠の帯の玉。
光り輝く宝石は玉のように美しい体にまとわり、
珊瑚は真珠にまじわる。
薄絹はなんと美しく舞うことだろう。
軽い裾は風にしたがって翻る。
振り返る美しい目元は光を残し、
歌を歌えば蘭のような香りが漂う。
行く人は車を止めて見とれてしまい、
休む人は食事をも忘れてしまう。
色が白くてしなやかなことが美しさの条件
「素手」や「皓腕」という言葉が見えることから
曹植は色が白いということを
美の条件と考えていたようですね。
その当時は顔におしろいを
塗ることが化粧の基本でしたが、
体もおしろいを塗った顔に負けないくらい
白いことが尊ばれたのでしょう。
また、曹植が「腰」に注目しているという点も
注目すべきポイントです。
腰というのはくびれていないと
注目されることの無い部位ですよね。
そのため、曹植が詠った美女は
腰が美しくくびれていたということが考えられます。
そして、腰がくびれているということは
腰のあたりが細かったという証拠。
このことから類推するに、
その当時の美女の体型は
わりとスレンダーであったということが考えられます。
また、曹植は美女の体全体のことを
「玉体」という言葉で表現していますが、
これは丸い体という意味ではなく、
やはり宝石のように張りが合って滑らかな体のこと。
色が白いということも
スレンダーであるということも
現代の美女の条件として挙げられるものですよね。
その他、曹植は流し目の美しさや
良い香りがするということを上げていますが、
これも現代の美女に当てはまる特徴と言えるでしょう。
三国時代の美女は
現代の美女とそれほど変わらない
容姿をしていたのかもしれませんね。
曹操が一本眉を流行らせた!?
「三国時代の美女はやっぱり美女なんだ~」
と胸をなでおろした人も多いでしょう。
ところが、彼女たちはもしかしたら
こち亀の両津勘吉のような
一本眉をしていたのかもしれないそうです…。
なんと、曹植のパパ・曹操は
魏の女性たちに眉墨で左右の眉をつなげるように
命令していたのだとか。
もしかしたら曹植が歌い上げた美女の眉毛も
立派な一本眉をお持ちだったのかもしれません…。
三国志ライターchopsticksの独り言
一本眉にしていたのは
魏の女性たちだけだとは思いますが、
曹植が歌い上げた美しい美女も
一本眉だったのかもしれないと思うと
何だか残念な気持ちになってしまいますね。
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