戦国時代には、川中島の合戦や関ケ原のように野戦で勝敗が決するケースもありました。
しかし、全体でみると、それは少なく、ほとんどの戦いは、城や砦を取り合うという地味な消耗戦だったのです。
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実は攻める側の被害が大きかった城攻め
戦国時代の映画のイメージだと、私達は攻撃側が優勢で城を守る側は苦しい戦いを強いられる、そんなイメージがあります。
ですが、実際は、城や砦は非常に強力な防御力を備えていて、攻める側の被害もかなり甚大なものになる事が多かったようです。
防御側は、大量の矢や投石で、城壁や土塁をよじのぼる攻撃サイドを狙い撃ちし攻撃側は甚大な被害を覚悟しないといけませんでした。
孫子の兵法にもある城攻めは最も下策は、日本の戦国時代も同じだったのです。
例えば、1540年の毛利元就vs尼子晴久の郡山城の攻防戦は、尼子勢が3万の大軍で4か月も城を包囲しながら
遂に落とす事が出来なかったのです。
それは毛利元就の采配が上手かったのだ、とも言えますが例え小さな城でもこれを攻め落とすのは、大変であった事情がうかがい知れます。
頻繁に行われた開城の為の調略
攻撃サイドは、城攻めに多大な犠牲を強いられるので、最後まで力攻めせずにふんだんに調略を仕掛けて、自発的に開城するように働きかけました。
城が炎上してラストを迎えたり、攻撃サイドが死屍累々の有様で敗走するような事は皆無ではありませんが、実際には少なかったのです。
そんな城のサイドの苦境が分かる書状を紹介しましょう。
永禄十一年(1568年)末、武田軍の乱入を受けた今川氏真は遠江懸川に逃れて再起を図りますが、徳川家康の軍勢に押され
遠江の今川の拠点はどこも危機的状態でした。
今川義元
堀江の城もそんな一つでしたが、城主の大沢基胤等は、今川氏の重臣、朝比奈に以下のような書状を出しています。
「兵糧は配当があれば2、3か月は持つだろうがどこからも兵糧を入れてくれる所もないのでもう限界です。
敵方からも色々な調略が入っていますが、難題を押し付けるので落着する事はないと思います。
今、このような状況ですが、もしお考えがありましたら、下知に従います」
これを受け取った朝比奈は、以下のような返答を返しています。
「これまでの忠節、誠に立派で御座います、この上は状況によっては、どのように落着させてもかまいません」
そうです!朝比奈は大沢の忠勤を褒めた上で、救援出来ないので、どのような対応をしてもいい、つまり降伏しても構わないと返事を出したのです。
この手紙を受けて、翌日には堀江城は徳川家康の勧告を受けて開城しました。
徳川家康は、大沢の奮闘を讃えて所領を安堵し城もそのまま任せています。
つまり堀江城はオセロがひっくり返るように今川から徳川に鞍替えしたのです。
徳川家康も器量が大きいとは言えますが朝比奈もあっさりというか、どこまでも城を死守せよなんて言わないんですね。
玉砕のぎょの字もないのが、不思議と言えば不思議です。
負けたのに恩賞を貰えた城主もいた
真田昌幸
堀江城のケースを見るように、戦国の城主は玉砕するまで戦おうとはせずに、ちょうど良い所で開城して、
相手に自分の力量を高く売りつける事がありました。
1580年、武田勝頼が真田昌幸を先鋒とする軍勢を上野沼田に差し向けました。
当時の沼田は後北条氏の支配下にあり、藤田能登守信吉という城主が守備していました。
ここで藤田は真田の攻撃をよく防ぎ、ようやく城を明け渡すのに同意して開城されましたが、藤田には利根川東郡300貫文の知行を受けました。
これは、藤田が開城の条件として城は明け渡してもいいが、代わりに知行が欲しいと言った条件が通った結果でした。
このように攻城戦は、守備側の城主にとり自分の能力を攻撃側の君主に知らしめる絶好の機会でした。
そして、開城の条件さえあえば、降伏するのは少しも恥ではなかったのです。
日本軍事史:吉川弘文館 165p~168p
戦国時代ライター編集長の独り言
戦国時代の城攻めと言えば、大阪城の落城や、小谷城の落城のように、最後は城を枕に討ち死にという壮絶ながら潔いシーンが思い浮かびます。
しかし、そういうのは、どうしても助からない最終局面の話であり、それ以外の攻城戦では、そこそこ抵抗して相手に自分の能力を売り、
さっさと鞍替えする事で、生き延びた武士たちも大勢いたのです。
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