衝撃!徳川家康の家臣団は学級崩壊していた?

2018年12月17日


 

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徳川家康(とくがわいえやす)を擁する三河武士団(みかわぶしだん)は、鉄の団結を誇り忠誠心が強く、主君の家康を黙々と支える忠義の集団のようなイメージで語られます。

物語の中でも、家康が独り立ちする事のみを楽しみに、今川氏に虐げられながら貧しい中でもコツコツと資産を積み重ねて、

独り立ちした家康の軍資金に与えるなど涙ぐましい忠誠エピソードが出てきます。

しかし、これらの話は、天下人徳川家康というイメージから逆算して造られたものであり、実際の三河武士団は勝手気ままの学級崩壊状態で、

何度も家康の足を引っ張り窮地に陥れた人々でした。

 

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勘違いで主君を殺害 痛すぎる阿部弥七郎

 

三河武士団は長い間、統一した主君を持たない土豪の集団でした。

一時、岡崎城主の松平清康(まつだいらきよやす)が類まれなる戦争指揮の能力で、瞬く間に三河を統一しますがそれも僅か5年程度で終ってしまい、

統一された主君を持つという時間がありませんでした。

 

そもそも、この松平清康からして、部下の阿部弥七郎(あべやしちろう)()に本陣で斬り殺されています。

しかも、弥七郎の殺害動機はただの勘違いでした。

弥七郎の父は、織田信秀(おだのぶひで)と内通しているという噂が立っていて、疑われた弥七郎の父は、息子に向けて清康宛ての誓紙を手渡しています。

弥七郎が誓紙を清康に渡そうと思っていると、本陣で馬のいななきが聞こえました。

それを聞いた弥七郎は、手紙が間に合わず、清康が父の屋敷を襲って討伐したのだと勘違いします。

そして、いきなり本陣に突入して清康を斬殺してしまったのです。

 

ちょっと調べればわかる事なのに、阿部弥七郎、部下として痛すぎます。

しかも、痛い家臣は、なにも阿部弥七郎だけではなかったのです。

 

 

 

俺、門徒だから・・家康より一向一揆を取った本多正信

 

徳川家康の懐刀として有名な本多正信(ほんだまさのぶ)ですが、彼は1563年に三河一向一揆がおきると、家康を裏切って一向一揆に参加しています。

裏切ったのは正信ばかりではなく、徳川十六神将、蜂屋貞次(はちやさだつぐ)本多正重(ほんだまさしげ)、徳川十六神将、渡辺守綱(わたなべもりつな)内藤清長(ないとうきよなが)加藤教明(かとうのりあき)

夏目吉信(なつめよしのぶ)等、徳川幕府の成立に尽力した家臣が含まれていました。

その後、三河を出奔した本多正信は松永久秀(まつながひさひで)に仕えたりしながら諸国を転々、最後には大久保忠世(おおくぼただよ)を通じて、徳川家に出戻りをする事になります。

しかし、徳川十六神将の二人と家康の知恵袋まで裏切るとは、どこまで三河武士団は学級崩壊しているのでしょうか?

 

織田信長スペシャル

 

家康の脱糞を大笑い、デリカシーゼロの大久保忠世

 

徳川家康は三方ヶ原の戦いで無謀とも言える武田信玄(たけだしんげん)との戦いに挑んで大敗。

一目散に浜松城に帰ってきますが、恐怖のあまり、脱糞(だっぷん)した事が知られています。

主君の惨敗と不名誉な脱糞、少しでも忠義のある家臣なら、そこは黙って主君をねぎらいそうなもの

ところが、徳川十六神将の一人、大久保忠世(おおくぼただよ)は、家康の脱糞を知るなり

 

「おーーい、殿が脱糞したぞ、だっふんだ!」とゲラゲラ大笑いしました。

 

バツが悪くなった家康は

「ブーーーーッ!これは脱糞ではありません、焼き味噌ですぅー!」と誤魔化すものの、

内心、くやしさでハートブレイクだったそうです。

 

ただ、ひとつ家康の為に弁護すると、戦国時代は合戦中の脱糞は何ら恥ではなかったそうです。

考えて見れば当たり前で、殺し合いをしている途中に「ちょっとゴメン、ウンコ」なんて許されるわけありません。

当然、我慢できなくなれば漏らしていたわけで時と場合によっては、逃げずに戦った証として名誉になる事もあったそうです。

もしかすると、忠世も意気消沈する家康をフォローするつもりで

「やーい、ウンコ垂れ家康ー!と」茶化したのかも知れませんが、デリカシーの欠片もないですね。

 

家康死亡説を吹聴する

 

無名ですが、この三方ヶ原の敗戦の時、小倉忠蔵(おぐらちゅうぞう)と言う武将は家康より早く浜松城へ逃げ帰った上に何を思ったか

「殿は討ち死にされたぞー!」と周囲に吹聴して浜松城を絶望のどん底に叩き落としたそうです。

こんな迷惑なデマを敵が撒くならまだしも、味方にまかれては家康はたまらなかったでしょう。

また、三方ヶ原の敗戦を知るや、浜松城に戻らずに他所に逃げてしまった譜代の臣も大勢いました。

「もう徳川はダメだ」そう思ったのかも知れませんね。

 

松平信康の弁護が出来なかった酒井忠次

画像:酒井忠次Wikipedia

 

1579年、徳川家康は織田信長より武田勝頼(たけだかつより)との内通を疑われた嫡男信康と正妻の築山殿(つきやまどの)を自害させます。

この時に、信康弁明の為に安土城に向かったのが酒井忠次と大久保忠世でしたが、酒井は、あまり信康を弁護できず

むしろ内通はあったと取れるような発言をして、結果、信長の怒りを買う結果になったとか、、

そして酒井が信康を弁護しなかった理由が、信康に日頃から軽んじている事への意趣返しだったというのです。

松平信康殺害の理由には、様々な説がありますが、もし、酒井の話が本当なら、自分の主君の息子を

守るどころか死に追いやってしまうという忠臣にあるまじき態度ですね。

 

 

これからは秀吉の時代だ!家康を裏切る石川と小笠原

 

本能寺の変の後、家康は一時、羽柴秀吉(はしばひでよし)と敵対して小牧(こまき)長久手(ながくて)の戦いを行います。

その翌年、家康の重臣、石川数正(いしかわかずまさ)、刈谷城主、水野忠重(みずのただしげ)、松本城主の小笠原貞慶(おがさわらただよし)が次々に秀吉に寝返りました。

特に石川数正は、徳川家の機密に関わっていた事から大ダメージであり、家康はやむなく、徳川の軍制を武田の軍制に切り替えないと

いけなくなったそうです。

石川和正や他の重臣の出奔理由には、色々な説がありますが、それまで支えてきた主君をあっさり裏切るのは、

忠義の三河武士のイメージにそぐいませんね。

   

 

戦国時代ライターkawauso編集長の独り言

 

家康に関しては最後の大阪夏の陣でも、真田信繁(さなだのぶしげ)の本陣突撃に対し家康の旗本衆が皆逃げてしまい流石の家康も

二度も自決を覚悟した程だったと言われます。

このように見ると、忠義の三河武士団といイメージは、少なくとも家康の時代では話半分でしょうね。

無理やりプラスで捉えるなら、これだけ自分の家臣で苦労したから家康は人の心の機微(きび)を巧みに読んで

天下取りレースに勝ち残れたとも言えるのかも知れません。

 

参考文献:web歴史街道三方原の戦い~いちばんの敵は味方だった !?家康を大敗させたダメ家臣団

 

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