【後北条氏の特徴】領民の命と財産を守った北条一族

2018年12月19日


 

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江戸城

 

戦国時代といえば、頻繁にお家騒動がありました。例えば、応仁の乱は畠山氏と将軍家の内紛が密接に関わっていました。

どの一族であっても、家督を継ぐのは誰かということを巡って争いごとになる可能性があったのです。

応仁の乱のように、ときには他の一族を巻き込んでの大きな戦いになることもありました。

しかし、北条早雲(ほうじょうそううん)を筆頭とする後北条氏では、一族のお家騒動は起こりませんでした。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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離縁した妻の為に寺を建て多額の慰謝料を払った氏政

北条氏政Wikipedia

画像:北条氏政Wikipedia

 

ところで、後北条氏4代目、北条氏政の妻である黄梅院(こうばいいん)は、武田信玄(たけだしんげん)の娘でした。

政略結婚でありながら氏政と黄梅院は仲の良い夫婦であり、子宝にも恵まれていました。

しかし、桶狭間(おけはざま)の戦いで今川義元(いまがわよしもと)が死亡したことがきっかけとなり、甲相駿(こうそうしゅん)三国同盟は崩れてしまいました。

それによって、黄梅院は氏政とは離縁することになってしまい、甲斐に帰ることになったのでした。

このとき、氏政は黄梅院との別れを惜しみ、堪忍分としてのお金を十分過ぎるほど黄梅院に持たせたそうです。

しかし、その7か月後に黄梅院はまだ若かったにもかかわらず病で命を落としてしまいます。

再び氏政に会えることは叶わなかったのです。

愛する妻、黄梅院の死を知った氏政は嘆き悲しみ、後北条氏の菩提寺である早雲寺内に黄梅院を建立し、彼女を弔っていたそうです。

この黄梅院自体は、残念ながら現存していません。

 
 

 

目先の利益よりも、忠義を大切にしていた

北条早雲

北条早雲

 

群雄割拠(ぐんゆうかっきょ)の戦国時代、己の利益に走る武将も決していなかったわけではないでしょう。

しかし、後北条氏は初代の北条早雲の時代から、目先の利益よりも忠義を大切にしていたことで知られています。

早雲の息子である氏綱(うじつな)も、非常に忠義を重んじる人物でした。彼は遺言として、「五箇条の訓戒」と呼ばれるものを残しています。

これは、戦国時代に作られた様々な分国法や訓戒のなかでも、とても素晴らしい内容であり、現在の私たちが生きていくうえでも

役に立つようなヒントがたくさんある文章なのです。

この五箇条の訓戒は

 

一、義を重んじること

二、人には捨てるような者はいない、したがって家臣・領民を慈しむこと

三、驕らず、へつらわず、己の分限を守ること

四、倹約を重んじること

五、勝ちが続くと驕りが生じるので注意すること(勝って兜の緒を締めよ)

 

という内容になっています。

決して傲り高ぶらず、家臣と領民を大切にし、忠義を重んじるというのは、組織のトップに立つものとしてはとても大事な心構えなのでは

ないでしょうか。

 

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ときには、自らの命と引き換えに自分の兵士を守る決断も…

豊臣秀吉

豊臣秀吉

 

一族の争いは起こらなかった後北条氏でしたが、戦国時代末期に急速に力をつけていった豊臣秀吉(とよとみひでよし)には敵わなかったのです。

1590年、北条氏政と氏直は、豊臣秀吉に敗北します。

このことは、秀吉の小田原征伐として知られています。

このとき、氏直は秀吉に対し、自分の命と引き換えに家臣たちのことは助けるように嘆願するのです。

年若い氏直からの申し出に驚いた秀吉は、氏直の命は奪わないことを決めたのでした。

しかし、氏直の父である氏政は、このとき切腹によって命を落とします。

   

 

戦国時代ライター星野まなかの独り言

戦国時代ライター星野まなかの独り言

 

そんな氏政が亡くなるときに詠んだ歌は、

「我身今 消ゆとやいかに おもふへき 空よりきたり 空に帰れば」というものでした。

この歌から、氏政がどのような人物であったか想いを馳せることができるのではないでしょうか?

「領民の命と財産を後北条家が守っていく」という信念を貫いた一族である後北条氏は、初代の北条早雲をはじめ、

民を大切にし忠義を重んじた素晴らしいリーダー達であったのです。

 

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