北条早雲の逸話を紹介、戦国のパイオニアは魅力的な男?

2018年11月29日


 

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北条早雲

 

北条早雲(ほうじょうそううん)は、戦国時代のはじめに活躍した戦国武将です。しかし、織田信長(おだのぶなが)武田信玄(たけだしんげん)などと比べると、少し知名度は下がるのではないでしょうか。まして、北条早雲の当時の呼び名であった伊勢新九郎(いせしんくろう)という名前を知っている人は、日本史が好きな人・ある程度の知識を持っている人を除くと、かなり少ないはずです。

 

ゆうきまさみの歴史漫画のタイトル、「新九郎(はし)る」を目にしても、これが北条早雲を題材にした漫画だとピンときた人は、一体どれくらいいるのでしょうか。他の有名な戦国武将と比べると若干知名度が低い北条早雲ですが、実はとても魅力的な戦国武将だったのです。そんな彼のパーソナリティがよく分かる逸話を、いくつか紹介します。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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人の心を掴むのがうまかった

三国志のモブ

 

北条早雲は、人の心を掴むのがうまい戦国武将でした。若いころに禅宗を学び、心を律している中で、世の中の混乱を見つめ続けていたというのも、彼の人心掌握のうまさに影響しているのでしょう。

 

早雲は、悪政をしていた茶々丸(ちゃちゃまる)を倒して自らが伊豆を治めるようになったとき、領民を苦しめていた重税から解放しました。これにより、領民たちは早雲のことを慕うようになり、逆らうことはしませんでした。また、仲間に病人がでれば医者を遣わせたり、部下に看病を依頼したりしたことも、早雲の人柄の評価を高めました。

 

 

 



1度手にした土地を手放すことはしなかった

応仁元年(1467年)の勢力図 水色東軍

(画像:応仁元年(1467年)の勢力図 水色東軍、黄色西軍、黄緑両軍伯仲Wikipedia)

 

土地を巡るいざこざを若いときから見てきた早雲は、一度手にした土地を決して手放すようなことはしませんでした。土地を失った者たちにはお金を配当するようにし、土地を奪い返されることがないようにしていたというエピソードからも、早雲の用心深さがうかがえます。

 

晩年奇行が多い豊臣秀吉

 

また、戦国武将による検知といえば、豊臣秀吉(とよともひでよし)による太閤検地(たいこうけんち)があまりにも有名ですが、実は戦国武将で初めて検知を行ったのは、早雲でした。戦国時代の先駆けとなった早雲は、その政治的なセンスやアイデアも当時としては、先進的だったのです。

 

 

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ユーモア溢れるエピソード

三国志のモブ

 

北条早雲は、自分だけでなく部下に対しても日常生活を厳しく律することを求めた厳格な人物ですが、わずかながら、ユーモア溢れるエピソードも残っています。それは、馬泥棒の裁判が行われたとき、犯人から「向かいの席に座られているあの方(早雲)は、国を盗んだじゃないか」と言われた早雲は、それを聞いたら笑い出してしまい、なんとその盗っ人を許してあげたのだそうです。

 

早雲にも、自分は国を盗んだという自覚があったのかもしれません。なぜなら、武力だけでなく、巧みな話術や戦略を使って手の中に収めた国もあったのですから。しかし、それを裁判の席で(しかも早雲本人を前にして)堂々と口にした馬泥棒も、ただ者ではないようです。

 

 

 

常に警戒心を持っていた

 

さて、早雲が並ならぬ警戒心を持ちながら日々を過ごしていたということは、早雲自身が制定したとされる北条家分国法からもうかがえます。北条家分国法の第18条には、

 

「すきありて宿に帰らば、廐面(きゅうめん)よりうらへまわり、四壁(かき)ね犬のくぐり所をふさぎこしらえさすべし。

下女つたなきものは軒を抜て焼、当座の事をあがない、後の事をしらず。

万事かくのごとく有るべきと深く心得べし。」

 

とあります。これは、「使用人は家の事に対し適当に済まし、何か事件があってもその場を取り繕うのに終始して問題を事前に防止する意欲のある者はほとんどいないものだ。だから人任せにしないで、最終確認は家主がやるようにするべきである。」という意味です。

 

 

戦国ライター星野まなかの独り言

戦国ライター星野まなかの独り言

 

この分国法に書かれた内容から、早雲がいかに几帳面で用心深い人物であったかがよく分かります。しかし、この並ならぬ警戒心の強さがあったからこそ、謀反が当たり前ともいえた戦国時代において、早雲は63歳(一説には、87歳とも)という長い人生を生きることができたのではないでしょうか。

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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