戦国時代の二大スターと言えば、サムライとニンジャだと思います。特に海外の人にとっては、この二つの存在は神秘的かつ魅力的でしょう。特に忍者は、その黒装束と卓越した体術と忍術により圧倒的人気を誇ります。しかし、一口に忍者と言っても、一塊だったわけではなく、抱えられている戦国大名によって名称が違いました。今回は戦国大名に抱えられたニンジャについて紹介します。
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この記事の目次
エントリー1 伊達家に仕えた黒脛巾組
奥州の雄、伊達家には黒い脛当てがトレードマークの黒脛巾組というニンジャ集団が仕えていました。伊達秘鑑によると伊達政宗が信夫郡鳥屋の城主、安倍対馬重定に命じて鼠に慣れた者を五十名選んで扶持米を与え、柳原戸兵衛、世瀬蔵人という人物を首領にしたそうです。彼らは黒革の脛当てを目印にしていたので黒脛巾組と呼ばれていました。ほとんど史料がない事から架空の人物の可能性もありますが、伊達家の本拠地が山形県の置賜地方で出羽三山系の修験者と交流があった事から、そのような忍者集団が形成された可能性は否定できないそうです。
エントリー2 後北条家に仕えた風魔党
北条早雲
後北条氏に仕えていたのが有名な風魔党で、首領は代々風魔小太郎を名乗りました。五代目の風魔小太郎は1579年の黄瀬川の戦いで手柄を立てているそうです。北条家の遺臣、三浦浄心の著わした「慶長見聞録」を下敷きにした著者不明の「北条五代記」によれば、天正年間の風魔一党は山賊、海賊、強盗、窃盗の四隊で二百名という大所帯にまで成長していたそうです。豊富な人数で敵に奇襲を仕掛け、人を捕え、馬の綱を切って城内を走り回り攪乱させるのを得意としました。槙島昭武が1726年に著わした軍学書「関八州古戦録」によれば、天文15年(1546年)あるいは天文12年に関東管領の上杉憲政が川越城に攻め寄せた時、北条氏康配下の小田原方の忍びである二曲輪猪助が斥候として差し向けられたとしています。いずれにしても、風魔党については断片的な内容で詳細は不明です。
エントリー3 上杉家に仕えた軒猿
上杉謙信
上杉謙信に仕えていた忍者集団は軒猿・簷猿と呼ばれていたそうです。名前の由来は、伊賀の藤林左武次保武が著した忍術書「万川集海」において、軒猿とは軒下に猿のように潜伏して情報収集をする者という意味であるとされています。軒猿は敵忍者の抹殺も得意としていたそうですから技量が高い人が多かったのでしょう。しかし、川中島五戦記 上杉三代日記、越後軍記のような上杉謙信の事績を中心に扱う軍記物に登場する上杉方の忍者には軒猿の名前は登場せず、夜盗組、伏齅、聞者役とあるだけで、軒猿という名称は出てこないそうです。また軒猿は後北条氏にも仕えていたそうで、上杉氏に専属ではないか或いは、軒猿は大括りに忍者という意味で、パーソナルネームを現わすのではないのかも知れません。
エントリー4 武田家に仕えた甲州透波
武田信玄
武田信玄に仕えた忍者は透波と言い、武田家の軍略に基づいて多用されたそうです。甲陽軍鑑によると、武田信玄は二十代後半で透波を組織化し武田家では七十名を召し抱えていました。その中で特に優秀な三十人を選抜し、板垣信方、飯富虎昌、甘利虎泰に十人ずつ配属し各地の大名の調略を行わせたと言います。甲州透波は二人一組で敵地を探り、決められた日時に国境に出張したツナギの武士に調べた情報を伝えていたようです。しかし、初期の甲州透波は、1547年の村上義清との闘いで、板垣信方と甘利虎泰が相次いで討ち死にそれを受けて信玄は組織を再編し三ツ者という諜報部隊を作ります。三ツ者の由来は、間見(諜報)、見方(謀略)、目付(監視)の三職分を扱ったためだそうです。構成員は武家ではなく、出家者、町人、百姓などからスパイに向いている人間をスカウトしたようで二百人もいました。三ツ者の統括者は、日向源藤斎、秋山十郎兵衛、西山十右衛門、雨宮存鉄という名前があります。
エントリー5 真田家に仕えた真田忍者
真田昌幸
真田家は、武田氏の支配下にあり、また真田の里が信濃修験道の聖地である「四阿山」を背後に控えていた影響から古くから山伏との関係があったようです。特に、真田昌幸は忍者を多用し、その配下には、禰津信政、出浦盛清、横谷幸重、割田重勝、唐沢玄蕃、鷲塚左太夫などの名前が見えます。どうして、忍者なのに名前が残っているかと言うと、真田昌幸は出自が低い忍者を下級武士として取り立て手厚く用いたからだそうです。通常は危険な仕事をさせられながら、あまり報われない忍者ですが、真田家ではかなりマシに遇されていたと言えるでしょうか。
エントリー6 織田家に仕えた忍者 饗談
織田信長に仕えた忍者に饗談という一団がいます。饗談の意味は、相手をもてなして情報を聞き出すで間諜の類でした。織田信長といえば、元は忍者とも言われる滝川一益なども配下にいて、忍者を多用していたようです。伊賀の藤林左武次保武が著した忍術書「万川集海」の「忍術問答」によると饗談は桶狭間の戦いで今川軍の動向を掴んで信長に報告し大勝利に貢献したとされていますが真偽は定かではありません。信長の配下には岩村重休という人物がいて、桶狭間の合戦以前から従っていました。父は岩村重利とも言われ、それが本当であれば甲賀五十三家の岩村氏と同族で重休は饗談だったのかも知れません。岩村重休は桶狭間の戦いの時に、清州城から飛び出した信長に従った五人の小姓、長谷川橋介、山口飛騨守、佐脇良之、加藤弥三郎の一人であり信長の信任があつかったそうですが、永禄4年(1561年)に信長に反乱を起こした犬山城主の織田信清征伐に参加。しかし、小口城を守っていた中島豊後守の調略に失敗し、その後に起きた小口の戦いでこめかみを槍で貫かれて死んだそうです。彼が饗談とすると、最期は「アレ?」という感じではありますね。
エントリー7 尼子家に仕えた鉢屋衆
毛利氏や大内氏と中国地方の覇権を争った尼子家にも鉢屋衆という忍者が仕えていました。鉢屋衆は祭礼や正月に芸を演ずる芸能集団だったそうです。元々は、平将門の乱で将門に加担した飯母呂一族で平将門の死後に全国に散りました。多くは山陰に逃れて鉢屋衆になりますが、筑波山に逃れた飯母呂一族は風魔になったようです。文明18年(1486年)京極氏に富田城を追放された尼子経久は、鉢屋衆が正月に富田城で演芸を披露する事を聞きつけ、首領の鉢屋弥之三郎に接近して味方につけました。
元日の午前三時、鉢屋衆は、烏帽子の下に兜を被り、素襖の下に具足をつけて武器を隠し持ち何食わぬ顔で大手門をくぐります。すでに城内は鉢屋衆の芸能を観覧しようと武士から農民からが集まって大混雑、この時、経久の一団も城に入り込み、太鼓の合図で城内各地に放火、これに合わせて鉢屋衆も烏帽子を捨てて、見物人に襲い掛かり、城内は大混乱、城主の塩屋掃部介は自害して尼子経久は富田城主に返り咲いたそうです。この功績で弥之三郎は、本丸北にある鉢屋平に長屋を与えられ、やぐら下組と呼ばれるようになり、以後、鉢屋衆は奇襲や騙し討ちで手柄を立てるようになりました。
エントリー8 毛利家に仕えた座頭衆、世鬼一族
中国の覇者、毛利元就には、座頭衆と世鬼一族という二種類の忍者がいました。元就は世鬼一族の二十五名を世鬼家枝連衆として足軽として禄を支給して領内六ケ所に住まわせます。代表的な世鬼一族は、世鬼政時で三百石で召し抱えられていました。もう一つの座頭衆は、いわゆる琵琶法師と呼ばれる盲目の人達でした。角都、勝一というような名前の人物の活躍が「陰徳太平記」に出てくるそうです。座頭衆は「盲人だから何も出来ないだろう」という人間の先入観を利用し上手く敵地の有力者に取り入り、情報収集や離間工作に力を発揮しました。この座頭衆と世鬼一族は共同して毛利氏に協力し、尼子氏で強力な武装集団を組織していた尼子国久の新宮党と当主尼子晴久を仲違いさせます。尼子晴久は、両者の計略にハマり新宮党を誅殺して勢力を弱体化させました。こうして、世鬼一族と座頭衆は毛利氏の中国地方制覇に大きな貢献をしたのです。
戦国時代ライターkawauso編集長の独り言
いかがだったでしょうか?
戦国時代に活躍した忍者集団は大名家により様々な名前で呼ばれていますが、持てる力をフルに発揮して主を支えていった事は共通しています。しかし、彼らの事績についてはほとんどが不明で活躍は謎に包まれています。真田忍者などは、例外であると言えそうです。実は、歴史の闇に埋もれているだけで、歴史を変えるような大手柄を立てた無名の忍者が存在するかも知れませんね。
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