明智光秀が主人公の大河ドラマ「麒麟がくる」の役どころは?

2019年1月1日


 

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明智光秀 麒麟がくる

 

2020年の大河ドラマは明智光秀を主人公ににした『麒麟がくる』です。明智光秀といえば、本能寺の変で織田信長を裏切ったということで、悪人としてのイメージが定着しています。

 

今回は、明智光秀が登場する大河ドラマを通して悪人になるまでの経緯に注目したいと思います。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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大河ドラマで明智光秀の生い立ちから知ることができるのは?

 

1973年の大河ドラマ『国盗り物語』では、斎藤道三との出会いから登場します。

 

明智光秀の生い立ちを辿ってみよう』では、明智光秀が1528年に牢人として生まれてから斎藤道三の家臣として取り立てられるまでの経緯を取り上げています。

 

『国盗り物語』では、土岐氏は下剋上で斎藤道三によって滅ぼされ、美濃国を乗っ取った斎藤道三が光秀を牢人から取り立て、斎藤道三の家臣となるシーンから登場します。

 

 

 

大河ドラマの明智光秀―登場するのはどのシーンが多い―

 

明智光秀の生い立ちを辿ってみよう』によれば、斎藤道三が息子の義龍に殺害されると、明智光秀は足利義昭の家臣となりました。当時、13代足利義輝が暗殺されてから室町幕府の将軍は全国を逃げ回っていました。15代将軍の足利義昭も例外ではありませんでした。義昭は全国の戦国大名の中から桶狭間の戦いで今川義元を破り、美濃国平定を目指していた織田信長に注目します。

 

1回目の交渉について、当時織田信長は美濃を完全に平定できていなかったため、足利義昭は織田信長と斉藤龍興との間に和睦させようとしました。和睦させることで、信長に上洛を促そうとしましたが、失敗に終わりました。

 

次に足利義昭は越前の朝倉義景に上洛を促しますが、成功しませんでした。そこで、明智光秀は足利義昭に織田信長に上洛を促すことを提案します。岐阜城で光秀と信長は対面することになりました。このシーンが織田信長と明智光秀の最初の出会いとなり、ほとんどの大河ドラマでは明智光秀が最初に登場するシーンとなっています。

 

 

明智光秀の悪人としてのイメージはどこで定着した!?

 

 

明智光秀について(3)―本能寺の変を決意―』では、明智光秀が織田信長に信頼されていたことを知ることができます。具体的には、史料などで丹波国攻めで丹波国1国を所領として与えられたり、1581年に光秀は京都御馬揃えの運営を任されたりしていたことが分かります。

 

明智光秀はなぜ織田信長を裏切ったのでしょうか。直接動機について書かれた記録がありません。推測として有力な説が取り上げられています。

1つめは徳川家康饗応役を解かれ、坂本城と丹波国を取り上げられたことです。2つめは丹波国平定です。波多野秀治に人質として出していた母親が殺されたことで、光秀が本能寺の変を決意するきっかけになったといわれています。他に、豊臣秀吉の軍師だった黒田官兵衛が仕掛けたという説もあります。

 

これまでに考えられる有力な説を取り上げましたが、本能寺の変の動機が記録として残っていません。光秀が中国攻めの途中で引き返し、本能寺にいた信長を襲いました。信長の身辺にいた兵の数が少なかったため、自害に追い込まれました。

   

 

戦国時代ライターオフィス樋口の独り言

 

明智光秀は主君織田信長を裏切り、自害に追い込んだことが悪人というイメージが先行する要因になったのかもしれません。結果として、山崎の戦いで味方すると当てにしていた細川忠興や筒井順慶らは豊臣秀吉の軍に味方しました。

 

明智光秀について(3)―本能寺の変を決意―』で取り上げていませんが、政策面で改革派の織田信長と保守派の明智光秀が対立していたという説もあります。政策面での信長と光秀の対立にも注目したいと思います。

 

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