今回は2020年の大河ドラマ『麒麟がくる』の主人公・明智光秀の居城だった坂本城について取り上げます。坂本城は現在城跡になっていて石碑が建っていますが、坂本は滋賀県大津市にある門前町でした。
この記事では、坂本の歴史を取り上げた上で、明智光秀の坂本城の記録と本能寺の変後の坂本城について取り上げます。
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坂本は門前町
坂本は比叡山延暦寺の門前に栄えた門前町です。平安時代の初期の僧・最澄が天台宗を開きました。この頃から門前町として栄え、平安時代の末期には南都の興福寺と北嶺の延暦寺に並ぶ権力を持ち、これらの寺にいる僧兵は後白河法皇を苦しめてきました。
坂本には約50ヵ寺の里坊があります。現在の坂本の街並みは織田信長が比叡山を焼き討ちした後に作られました。琵琶湖に面していることから交通の要所としても栄えていました。坂本の街並みは国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。
明智光秀が築城した坂本城
1571年に織田信長が比叡山焼き討ちをしましたが、焼き討ちをするまでは坂本城はありませんでした。門前町として栄えていた坂本ですが、琵琶湖に面していることで交通の要所となっていました。
織田信長は交通の要所となっていた坂本に城を築城するよう明智光秀に命じました。このことがきっかけで、明智光秀は坂本城を築城し、城主となりました。『明智光秀について(3)―本能寺の変を決意―』では、坂本城は京都に近いことから光秀の京都市政と石山本願寺などの一向一揆との戦いの拠点になったことを取り上げました。
また、坂本城の果たした役割として、光秀が丹波国へ侵攻した際、重要な拠点にもなっています。波多野秀治が抵抗したことにより長期化しましたが、丹波国平定に成功しました。
では、坂本城はどのような城だったのでしょうか。イエズス会宣教師のルイス・フロイスの『日本史』に記録が残されています。坂本城という記述はありませんが、日本人にとって豪壮華麗なものだと評価したという記録が残されています。
坂本城完成後に茶会が開かれたという記録も残されています。その記録によれば、城内に琵琶湖の水が引き入れていて、直接船で乗り込むことができます。坂本城の城内から直接安土城に向かったという記録があります。
本能寺の変後の坂本城
明智光秀は1582年に不祥事を起こしていないにもかかわらず、織田信長に坂本城と丹波1国を取り上げられました。この後に本能寺の変が起こりました。
1582年6月2日、明智光秀は本能寺にいた織田信長軍を襲いました。信長だけでなく、二条城にいた織田信忠も自害させました。しかし、6月13日に山崎の戦いで豊臣秀吉の軍に敗れました。明智光秀は坂本城を目指している途中で百姓らに襲われ、死亡しました。
本能寺の変の直後、安土城を奪った明智秀満は、山崎の戦いで敗戦を知ると安土城から坂本城に移りました。豊臣秀吉の軍に城を包囲されると、明智秀満は坂本城に火を放ちました。
その後、坂本城は羽柴秀吉が再建を命じ、丹羽長秀が城主になりました。丹羽長秀の後、城主が何人か入れ替わりましたが、1586年に坂本城の城主だった浅野長政が大津城を築城しました。浅野長政が大津城を居城としたことに伴い、坂本城はなくなりました。
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戦国時代ライターオフィス樋口の独り言
現在、比叡山延暦寺の門前町の坂本には約50ヵ寺の里坊が残されています。坂本城の跡には石碑が建っていて、当時の記録が残されています。
1979年まで坂本城辺りでは発掘調査は行われていませんでした。住宅地の開発に伴い発掘調査が行われると、坂本城に火を放ったときの焼土層などが発見されました。今後、大河ドラマ『麒麟がくる』の放送に合わせて坂本城の発掘調査に注目したいと思います。
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