戦国時代の伊賀・甲賀といえば忍者の里のイメージの方が強いと思います。しかし、最近の研究により、この忍者の里では国土防衛の必要から身分と階層を越えた軍隊が結成され、惣国一揆と呼ばれる合議制の連合組織が生まれていた事が分かっています。
封建制を越えて、すべての構成員が団結して戦う国民国家のような枠組みは、一体、どのようにして誕生したのでしょうか?
この記事の目次
十二人の評定衆を選んで政治を運営する伊賀惣国一揆
古来より伊賀は山がちの土地で小規模な国人領主が根を張る荘園地でした。荘園ごとに同族の運営がされる間に、やがて伊賀の国中から十二人の有力な評定衆を選び合議によって伊賀の治安を維持するシステムが確立していきます。これを当時、伊賀惣国一揆と言いました。
一揆というと農民一揆のような武装蜂起に思えますが、実際は同志的な集団を指します。また惣国とは、地域社会の構成員が階級の違いを越えて連帯し自治的な運動を展開する一揆の事を指しています。伊賀惣国一揆は、自治を認めてもらう代わりに各大名に軍事協力していました。忍者もこのような軍事協力の一形態だったようです。
伊賀惣国の軍事体制
では、伊賀惣国の軍事体制はどのようなものだったのでしょうか?
惣国一揆掟書によると敵の侵入には、惣国一味同心で防衛する事が決められました。村々は鐘を鳴らして、ただちに防戦体制に入り、武者大将の指揮の下で17歳から50歳の人間が村単位で組織されます。
主力は侍ですが、農民も足軽として戦争に参加し手柄を立てると褒美を与えて侍の階級に引き上げられるという実力主義を採用していました。ここに見られるのは、祖国の防衛の為に身分と階層を乗り越えて組織された国民軍とも呼べる概念だったと言えるでしょう。伊賀惣国一揆は、小規模ながら明治維新を先取りした組織だったのです。
甲賀が組織した郡中惣
隣接する甲賀でも、同じく郡内の地域秩序の維持の為に郡中惣が組織されました。郡中惣は掟に基づき、郡中奉行という組織によって運営され、村同士の境界争いなどの調停を行っていました。
甲賀で郡中惣の行動が活発になった背景には、当地の守護六角氏が織田信長に敗れてしまい、その統治力が低下した不安がありました。政情不安を乗り切る為に甲賀郡の国人領主は結束を強める必要があったのです。
伊賀と甲賀が手を組んだ野寄合
自治傾向を強めた伊賀と甲賀は、織田信長の侵略に対して共同して防衛にあたろうとします。これを野寄合と言い、選出された評定衆と郡中奉行が集まり連携を深め軍事や経済について、様々な掟を定めていきました。意見が割れた時には多数決により決定していたそうです。戦国時代という時期を考えると、かなり民主的なシステムと言えますね。
しかし、元亀元年(1570年)に六角氏が信長に大敗すると甲賀も信長に降伏、以後、国人領主は「甲賀衆」として信長に付き従いました。こうして、野寄合も自然消滅してしまったのです。
最後まで信長に抵抗した伊賀も1581年に降伏
甲賀の脱落後も、伊賀惣国一揆は独立を維持し、信長に抵抗しつづけます。その団結力で織田信雄の軍勢を撃退した事もありましたが、織田信長は、戦争のプロである侍の集団を敗北させた伊賀惣国一揆に脅威を感じ天正9年(1581年)に5万の軍勢で伊賀に攻め寄せて非戦闘員を含めて30000人を殺戮、伊賀を破壊し尽しました。
戦国時代ライターkawauso編集長の独り言
明治維新を身分制を廃棄して四民平等を実現しすべての国民が政治に関与できる体制を目指したものと定義するならば、伊賀惣国一揆も、複雑な身分制を越えて全ての構成員が国防に参加し、それぞれの惣村で選んだ代表の評定衆が協議して政治を行う等は、維新の国民国家のモデルを先取りしたものであると言えます。
その先進的な政治体制を同じく改革者と呼ばれた織田信長が破壊するのは歴史の皮肉を感じずにはいられません。
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参考:最新研究が教えてくれる! あなたの知らない戦国史 /タツミムック/ ムック /2016/11/17かみゆ (著)