明智光秀はどんな顔をしていたのか?イケメン男子だったの?

2019年1月9日


 

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燃える本能寺

 

主君、織田信長(おだのぶなが)を討ったとして悪逆な武将と言う悪名を背負った明智光秀(あけちみつひで)。さぞかし、残忍狡猾な顔をしていたかと思いきや、現在まで伝わる肖像画の光秀はいかにも線が細く、文化を愛好しそうな若き貴公子というイメージです。

 

信長にバカにされる明智光秀

 

そのような事から、江戸時代には暴君信長に虐められた光秀がそれに耐えられずに私怨から信長を討ったという言説が説得力を持ちました。しかし、この肖像画が間違いなく光秀であるという確証はまだないようです。では、本当の光秀はどんな顔をしていたのでしょうか?

 

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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自称光秀の遺児が描いた本徳寺の光秀像

火縄銃(鉄砲)が得意な明智光秀

 

こちらの肖像画は歴史教科書などでも有名な大阪府岸和田本徳寺にある光秀像です。話によると、こちらの肖像画は光秀の遺児とされる南国梵桂(なんごくぼんけい)という人物の筆によるものだそうであり元々、貝塚の鳥羽庄海雲寺(とばのしょうかいうんじ)にあったのですが、慶長十八年(1613年)に妙心寺の蘭秀宗薫(らんしゅうそうくん)がやってきて肖像画に

 

輝雲道琇善定門(きうんどうしゅうぜんじょうもん)

 

という戒名(かいみょう)を書き加えたと言われています。

 

その後、肖像画は海雲寺の後継にあたる本徳寺に移って現在に至っています。ところで、こちらの肖像画が明智光秀だと言われている根拠ですが、それは、輝雲道琇善定門という戒名の中に、「光」と「秀」という漢字が入っているからという安直なモノ・・実は、光秀の遺児と言われる南国梵桂も履歴のハッキリしない人であり、本当に光秀の遺児であるかどうか証拠もないのです。

 

さらにこの肖像画では、光秀の着ている帷子(かたびら)の柄が家紋とされる桔梗紋や替紋である丸の内にたちばな)ではなく笹紋(ささもん)になっていて、本当は光秀ではない可能性さえ残されているのです。

 

参考:明智光秀残虐と謀略一級史料で読み解く

 

 

 

本当の光秀は千葉真一みたいな顔だった!

明智光秀(麒麟がくる)

 

明智光秀の肖像画は、先ほど挙げた大阪岸和田本徳寺にある一枚しかありません。しかし、明智光秀の木像というのは複数存在しているのです。その中の一つで、もっとも古い物が京都市右京区京北の慈眼寺にある光秀木座像です。こちらの木像は、元々、光秀が建立した密厳寺(みつがんじ)にあったものが、1912年に寺が廃寺になる時、現在の慈眼寺に移されたそうです。

 

こちらの木座像は、作者不詳ですが安土桃山から江戸初期に造られたもので光秀の徳を慕った村人が世間の目を憚りつつも、木像を黒塗りにして桔梗紋を隠し刀なども取り外し、目立たなくして信仰していたという話です。つまり、時期的に光秀を目撃した人が木像を造った可能性が高く、そうであればこそ木像を支配者層に光秀と見破られないように村人が黒く塗ったとも考えられます。

 

一見しても、本徳寺の女性的な色白な光秀とは似ても似つかず、太い眉と憤怒相(ふんぬそう)を取る険しい顔つきと、四角い顔、がっちりした体つきが、血で血を洗う戦国時代を生きてきた名将光秀に相応しい感じがします。どことなく、千葉真一(ちばしんいち)の若い頃みたいな感じにも見えないでしょうか?

 

敵は本能寺にあり、コオオオォォーーー!!

 

なーんて言えば、ギャグになりますけど、頼もしい感じですね。

 

麒麟がくる

 

 

 

日光東照宮にも光秀と思われる木像が・・

 

明智光秀の像と言えば、光秀とは関係なさそうな日光東照宮にもあります。これは、公に光秀と言われてはいませんが、光秀なんじゃないの?という都市伝説的な話になっているのです。

 

それが、こちらの日光東照宮の陽明門に鎮座する随身像(ずいしんぞう)です。こちらは平安時代の右大臣の姿を模したものと考えられていますが、衣服の家紋が桔梗紋にも見える事から随身像は光秀ではないかと噂されています。そこから家康のブレーン、天海僧正(てんかいそうじょう)が本当は明智光秀ではないかという憶測が出てくるようですね。しかし、よく見ると随身像の家紋は桔梗ではなく木瓜紋(もっこうもん)の方が、近いと考えられています。うーん、木瓜の紋で右大臣なら、これは織田信長の木像と考えた方がまだ自然かも知れませんね。

 

 

戦国時代ライターkawauso編集長の独り言

 

本当の光秀の顔はどっちなのか?kawausoは慈眼寺の明智光秀が本当の顔に近いような気がします。たった一人で信長を討つ事を決意し、見事に実行した胆力は慈眼寺の木座像の方が説得力があるからです。

 

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織田信長スペシャル

 

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kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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