明智光秀は本能寺の変で主君・織田信長を裏切ったとして悪人としてのイメージが定着していますが、都市伝説でも有名になっています。
この記事では、これまでの記事から本能寺の変と山崎の戦いを振り返るとともに都市伝説として山崎の戦いで死んでいなかった説を取り上げます。後半では、その後どのようにして生きたのか取り上げます。
本能寺の変と山崎の戦い―なぜ都市伝説が出たのか―
本能寺の変とその後の山崎の戦いについては『本能寺の変と想定外の山崎の戦い』を基に振り返ります。明智光秀は毛利の中国地方を攻めるために亀山城を出ました。光秀は急遽引き返し、本能寺にいた織田信長を襲いました。これが本能寺の変です。
光秀の軍が信長のいる本能寺を包囲しました。当時、本能寺には小姓など50人程度しかいませんでした。信長は小姓の1人である森蘭丸から敵は明智の軍勢という報告を受けました。
大河ドラマなどでは明智の兵と少し戦ってから、本能寺に火を放ち、自害したシーンをよく見ると思います。このシーンについては、太田牛一が当時本能寺にいた女中らに話を聞いたといわれています。この女中らに聞き取った内容は『信長公記』に残されています。
明智光秀は本能寺の変で信長を自害に追い込むと、安土城を占領しました。光秀は細川忠興と筒井順慶たちに味方につくように書状を送りましたが、賛同を得ることができませんでした。
豊臣秀吉は備中高松城からわずか数日で京に引き返し、秀吉の軍と光秀の軍が衝突する山崎の戦いが起こりました。結果、山崎の戦いは秀吉の軍が勝利しました。
山崎の戦いで秀吉の軍が勝利すると、明智光秀は坂本城に逃げました。逃げていた途中で農民に殺害されたといわれています。しかし、明智光秀の首は発見されていません。首が発見されていないために江戸時代まで生き延びていたのではないかという都市伝説が出るようになりました。
明智光秀の都市伝説とは?
明智光秀の都市伝説として、『明智光秀の逸話』では江戸時代まで100歳以上生きていたという説を取り上げました。具体的には、光秀は生き延びて、南光坊天海と名乗ります。南光坊天海として徳川家康に仕えていたという都市伝説があります。南光坊天海とは天台宗の僧で、徳川家康の家臣です。また、当時としては珍しく、天海は100歳以上生きたことで有名です。
この都市伝説の根拠は次の通りです。光秀が1528年生まれで、天海が1536年生まれです。偶然生年が近いことだけでなく大阪の寺院に僧になったという記録も残されていることからこのような都市伝説が浮上しました。
戦国時代ライターオフィス樋口の独り言
今回は前半で本能寺の変と山崎の戦いの概要と都市伝説が浮上した経緯について取り上げました。明智光秀は山崎の戦いで豊臣秀吉の軍に敗れ、坂本城に逃げる途中で農民に殺害されたといわれています。ほとんどの大河ドラマも農民に殺害されたという演出をしています。
しかし、この記事の読者の中には南光坊天海として徳川家康の家臣となり生き延びていたという都市伝説が浮上していることについて意外だと感じるかもしれません。光秀の首が見つかっていないことからこのような都市伝説が浮上するようですが、南光坊天海についてはあり得ないという結論に至っているようです。
明智光秀の都市伝説については山崎の戦いで生き延びて茶人になったという説も挙げられています。この説については別の記事で取り上げます。明智光秀以外では、織田信長を裏切った荒木村重が茶人となって生き延び、息子が岩佐又兵衛になったという説もあります。これから名前を変えて生き延びたといわれている歴史上の人物にも注目したいと思います。
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