明智光秀は長篠の戦いの功労者だった!光秀の戦術眼と功績を紹介


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長篠の戦いWikipedia

画像:長篠合戦図屏風Wikipedia

 

2020年のNHK大河ドラマの主人公、明智光秀(あけちみつひで)

彼が織田信長(おだのぶなが)にヘッドハンティングされた大きな理由に鉄砲の扱いに精通していた点があります。

信長は自身も鉄砲を撃つような鉄砲好きであり、今後、鉄砲が戦争を変える事を知悉(ちしつ)し無名の時代から鉄砲の保有を進めていました。

お互いに鉄砲に可能性を見出した両者はウマが合ったのでしょう。

また、鉄砲が騎馬隊の突撃を打ち破った戦いとして知られる天正3年(1575年)五月二十一日の長篠の戦いですが、

この戦いにおける陰の功労者も明智光秀であったかも知れないのです。

 

※こちらの記事は、祥伝社新書 明智光秀 残虐と謀略を参考に、ライターの考えを交えて構成されています。

 

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明智光秀は長篠の戦いで活躍していない筈だが・・

明智光秀は鉄砲の名人 麒麟がくる

 

このように書くと、戦国史に詳しい方は違和感を持つかも知れません。

「いやいや、手柄もなにも明智光秀は長篠の戦いで活躍してないよ」

確かに、この歴史的な合戦で光秀の名前はまるで出てきません。

軍記物の明智軍記さえ、スルーしている位です。

ところが、史料を見てみると表には出てこない光秀の活躍が出てくるのです。

 


 

長篠の戦いの真実 信長に激賞を受ける光秀

織田信長

 

長篠の戦いの後、明智光秀は近江坂本城に帰還しています。

その後、五月二十四日に戦勝祝いとして吉田兼見(よしだかねみ)が駆け付けますが、ここで光秀は信長から受けた書状を兼見に見せています。

 

今度、三州(三河)表の儀、信長より明智に対し仰せのぼせられる御折紙

披見せしむる也、悉く討ち果たすの儀、定めの如く也

兼見卿記(かねみきょうき)

 

この書状は折紙という様式で、公式な堅紙(かたがみ)と違いプライベートなもので、主に刀の鑑定書や家臣を褒める感状として出されました。

 

※折紙とは本紙を縦長に折り、何も書かれていない裏側を礼紙の代わりにしたのです。

平安頃まで公式の書状は文書を認めた本紙を礼紙で包んでいたのですが、

鎌倉時代に紙の節約の為に礼紙を省略して本紙の裏を礼紙にしたものです。

 

兼見卿記の内容は、つまり、三河での戦いの時に信長から光秀に出された折紙を見せられ、そこには

予定通り悉く殲滅したと書かれていたというものです。

不思議な話ですね、長篠の戦いで活躍していない光秀に、どうして信長が予定通り殲滅できたと感状を出したのでしょう。

 

【信長を討った明智光秀の波乱の生涯】
麒麟がくる


 

長篠の戦い火縄銃を集めさせた光秀

細川藤孝(幽斎)

何もしていないように見える光秀に信長が感状を出した理由、、

それは、光秀が長篠の合戦において重要な火縄銃と弾薬の調達に奮闘したから、

この事に尽きるのではないでしょうか?

 

実際に信長は長篠合戦で鉄砲を重視して、家中から鉄砲を集めていますが

その際に、外様である細川藤孝(ほそかわふじたか)筒井順慶(つついじゅんけい)にも鉄砲及び狙撃手、玉薬(たまぐすり)(弾薬)を供出するように促す文書を送っています。

 

家中ならある程度、鉄砲数を把握できるとしても外様大名の軍備までは、なかなかわからない筈です。

それを文書で調達を命じたという事は、細川氏や筒井氏には、鉄砲や狙撃手や弾薬が多くある事を信長に伝えていた人物がいたという事です。

これが出来るのは、藤孝とは縁戚関係で順慶とも親しかった光秀では、ないでしょうか?

 

あの信長がアドバイスを仰いだ光秀の戦術眼

明智光秀 麒麟がくる

 

織田信長はスタンドプレーの多い人物であり、人の指示に従う事などほぼ無かった人で、多くの指示を出して自分も走り回っていた人でした。

 

信長公記にも、

懸けまはし(駆け回し)御覧じ

 

等と描写され、忙しく馬で戦場を駆けていた信長が出てきます。

ところが、そんな信長は明智光秀にアドバイスを求めた記述があります。

それは長島一向一揆征伐の途中に光秀に送られた書状に出てきます。

 

(敵が城から)取出(とりいずる)においては、後巻きに及ぶべく(そうろう)か、如何(いかん)、分別次第に候

 

これは敵が出撃してくれば、援軍を出した方が良いかどうだろう?光秀の判断に任せるという意味です。

スタンドプレーが信条の信長がアドバイスを出す程、光秀の戦術眼は優れていたという証拠ではないでしょうか?


  

 

 

長篠の戦いは鉄砲の集中運用と馬防柵

 

長篠の戦いは、従来言われてきた鉄砲三千挺に三段撃ち戦術がほぼ否定されています。

しかし、信長が家中、及び外様の大名にも鉄砲、弾薬、狙撃手を集めさせたのは事実で信長公記でも

長篠決戦には千挺(ばかり)(約千挺)鳶ヶ巣(とびがす)山攻撃の別働隊が五百挺と記録され、それ以外にも、根来衆(ねごろしゅう)や他の武将も鉄砲を集めていて

最低ラインが千五百挺と考えられます。

 

敗れた武田軍に関しても、死傷者は万から千程度と被害にばらつきがありますが、

内藤正豊(ないとうまさとよ)山県昌景(やまがたまさかげ)馬場信房(ばばのぶふさ)原昌胤(はらまさたね)原盛胤(はらもりたね)真田信綱(さなだのぶつな)土屋昌続(つちやまさつぐ)、等々錚々(そうそう)たる重臣が開戦数時間で敗死している事や、

信長公記には、「関東衆は馬の扱いがうまく、この時も馬を使って掛かって来た」と書いてある事、

また、徳川家康(とくがわいえやす)が家臣に向けて、「馬防柵の手入れを念入りにして構築せよ、武田は馬一筋に突入してくる」と書いた文書も残っている事から、

三段撃ちが存在しなくても、多量の鉄砲が武田騎馬隊の敗北に繋がったのは、否定できない事実なのだそうです。

 

戦国時代ライターkawauso編集長の独り言

 

明智光秀は、長篠合戦に必要不可欠な鉄砲と狙撃手、弾薬集めに奔走し、それが武田騎馬軍団を敗走させる原動力になった。

信長はそれを知っていたからこそ、実戦では目立った活躍がない光秀に予定通り敵を殲滅できたと感状を送ったのでしょう。

長篠の戦いは、鉄砲に精通した光秀なくしては勝利を掴めなかった戦いかも知れないのです。

 

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