『明智光秀の都市伝説(1)―山崎の戦いで死んでいなかった―』では、山崎の戦いで生き延びて、徳川家康の家臣・南光坊天海になったという都市伝説を取り上げました。
根拠として、山崎の戦いの戦いの後、明智光秀は農民に殺害されたといわれていますが、首が見つかっていません。このことから光秀は生き延びていたという都市伝説が浮上しました。
この記事では、南光坊天海以外の都市伝説もあります。明智光秀の都市伝説として千利休について取り上げます。
千利休の青年期と意外な本名
千利休は1522年に堺の商人の家に生まれました。父親の名前は田中与兵衛で、本名は田中です。トリビアの泉で、千利休の本名が田中と紹介されると、読者の中には回答者が驚いていたのを覚えている人がいると思います。
青年の頃から茶の湯に親しみました。室町時代の茶人・武野紹鴎に師事して茶の湯の改革に取り組み、佗茶を完成させました。
茶人・千利休とは?
佗茶を完成させたことで、茶聖と呼ばれていました。
また、今井宗久、津田宗及とともに茶湯の天下三宗匠とも呼ばれていました。佗茶の完成者として知られるようになると、商人として織田信長や豊臣秀吉に仕えるようになりました。この頃の戦国武将は茶器と茶道に影響を受けるようになり、茶器が高額で売買されることもありました。
織田信長の死後、豊臣秀吉に仕えますが、秀吉との関係が悪くなり、切腹するよう命じられました。千利休が切腹に至った経緯については未だ不明な点が残されていますが、千利休が黄金の茶室に不満を募らせたことや秀吉に茶室の躙り口を入らせたことで心証が悪くなったと考えています。
明智光秀の都市伝説―明智光秀は千利休に変身した?―
明智光秀は山崎の戦いで生き延びたという都市伝説があります。『明智光秀の都市伝説(1)―山崎の戦いで死んでいなかった―』では、光秀が生き延びた説として、南海坊天海になったことを取り上げました。
もう1つの都市伝説として、安土桃山時代の茶人・千利休になったという都市伝説もあります。この都市伝説について取り上げます。
この都市伝説の根拠は次の通りです。明智光秀が山崎の戦いの後、堺に隠れて千利休に変身しました。利休を気に入った豊臣秀吉は重用しましたが、利休の正体が明智光秀と分かったため切腹するよう命じられたという都市伝説です。
千利休の都市伝説については、織田信長の代から商人・茶人として接点があると考えられます。豊臣秀吉は信長の家臣だった頃、商人としての千利休と接点があり、面識があることからすぐに千利休の正体に気付くはずです。
よって、明智光秀が本能寺の変の後に千利休に変身したという説はあり得ないということになり、この都市伝説は否定してよいと思います。
戦国時代ライターオフィス樋口の独り言
今回は、『明智光秀の都市伝説(1)―山崎の戦いで死んでいなかった―』と同様に、明智光秀の都市伝説として、山崎の戦いの後に堺の商人・茶人の千利休に変身していたことを取り上げました。
明智光秀については、これまでの記事で取り上げたように、山崎の戦いで光秀の首が発見されていないことから謎の部分が多いといわれています。不明な点が多いため、都市伝説が浮上しています。
大阪にあるお寺には明智光秀の肖像画や位牌などがあります。この肖像画名との記録によれば、山崎の戦いの後、僧になったという記録が残されていて、生き延びていたことになります。どのような形で生き延びていたのか分かりませんが、2020年の大河ドラマ『麒麟がくる』の放送で、未だ解明されていない問題が解明されるのかどうか注目したいと思います。
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