【明智光秀と妻木煕子】光秀を瀕死から救った看病物語

2019年1月12日


 

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明智光秀(あけちみつひで)煕子(ひろこ)には、多くの夫婦美談が残されています。異説もありますが、光秀は側室を置かなかったとも言われ二人の仲の良さが窺えます。しかし、例えば煕子が嫁入り直前に疱瘡に罹り顔にあばたが残ったのを光秀が構わずに妻にしたとか、貧窮した光秀の為に自分の黒髪を売って連歌会に参加する費用を造ったというのは二人の仲の良さを強調した後世の創作だと考えられています。

 

明智軍記_明智光秀_書類

 

そう聞くとガッカリしますが、一方で、史実の中にも二人の仲の良さを窺わせる話もあるのです。今回は瀕死の光秀を命に引き替えて看病した煕子についての話を紹介しましょう。

 

※この記事は、明智光秀残虐と謀略一級史料で読み解くを参考にブログ主の感想を交えて書いています。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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転戦で疲労した光秀は倒れ曲直瀬道三邸で静養する

明智光秀 麒麟がくる

 

天正4年(1576年)は、光秀が多忙を極めた年だったようです。

 

赤井直正

 

明智光秀の軍勢は、そもそもが便利屋軍団で信長の命令によってあちこち転戦した上に天王寺や越前で本願寺勢と戦い苦戦し、丹波では赤井直正(あかいなおまさ)に破れて敗走する衝撃もあり蓄積された疲労が限界を迎え、五月二十三日に発病します。

 

明智光秀を泣かす赤井直正

 

戦えなくなった光秀は、やむなく帰京、医師であった曲直瀬道三正盛(まなせどうさんまさもり)邸で療養します。

 

惟日(明智惟任日向守)もってのほか所労帰陣、在京也

兼見卿記(かねみきょうき)

 

忙しくて過労で倒れる明智光秀

 

もってのほかの所労(疲労)ですから、ただ事ではありません。同時代の言継卿記(ことつぐきょうき)によると、光秀の病状は非常に深刻で死亡説まで流れたそうですが、治療に努めると同時に信長も見舞いの使者を送るなどした事で、徐々に回復し七月十四日に吉田兼見が坂本城に来た時には面会できる程に回復していました。しかし、その代わりに光秀の妻、煕子が病気で倒れてしまったのです。

 

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夫、光秀を看病していた煕子

 

西教寺塔頭実成坊過去帳(さいおんじたっちゅうじっせいぼうかこちょう)によると、煕子は光秀が病臥している間、兼見の吉田神社や雄琴の大中寺に祈祷(きとう)を依頼し、必死の看病を続けていたそうです。その甲斐あり、光秀が回復すると安心した為か緊張の糸が切れてしまい病に伏し天正四年(1576年)十一月七日に死去しています。もっとも、こちらには異説もあり、後世の軍記物である明智軍記では天正十年(1582年)に坂本城が落城した時に死んだという説もあります。しかし、夫の戦死にあわせて坂本城で自刃して死ぬというのは武士の妻らしいテンプレな感じもあり、実際には1576年説が正しいように思えます。

 

麒麟がくる

 

 

煕子を看病していた光秀

御妻木(明智光秀の妹)

 

同時期の兼見卿記を読むと、在京の煕子を看病する為に光秀が在京していた事が裏付けられるそうです。つまり、光秀は非常に多忙にも関わらず、煕子の看病の為に京に留まっていました。瀕死の自分を看病してくれた妻の愛に応えようとしたのでしょうか?

 

爆死する松永久秀

 

しかし、光秀は妻の最期まで看取る事はなかったようで命令により、信貴山城(しぎさんじょう)に立て籠もった松永久秀(まつながひさひで)の討伐に赴きそれが終るや今度はリベンジ戦の為に赤井直正を攻略する為に丹波に入っています。妻の死を前に悲しんでばかりもいられない戦国大名明智光秀のつらい心情が伝わってくるような話です。

 

 

戦国時代ライターkawauso編集長の独り言

 

光秀には、さらに肉親の死が続きます。天正九年(1581年)八月七日または八日、光秀の妹、御ツマキが死去するのです。この女性は、信長に仕えた女房衆の一員であり、光秀の立場や考えを信長に直接代弁できるポジションにいた人でもありました。

 

同年小録(書物・書類)

 

実際に御ツマキの死去にあたり、同時代の多聞院日記(たもんいんにっき)、八月二十一日には

 

「去七日、八日の比歟、惟任ノ妹ノ御ツマキ死了、

信長一段ノキヨシ也、向州比類無く力落」

 

 

このようにあり、信長がこの御妻木に対しキヨシ也としています。キヨシの意味には、凶事、御旨(お言葉)、気良し(気立てが良い)等ありますがいずれにせよ、信長に何らかの感想を持たせる女性だったようです。

 

非常に極悪な表情をしている豊臣秀吉

 

この後、光秀は対中国の毛利攻めの仕事を羽柴秀吉(はしばひでよし)に奪われるなど、信長に対する影響力の顕著な低下がみられるようになります。

 

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織田信長スペシャル

 

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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