明智光秀と煕子には、多くの夫婦美談が残されています。異説もありますが、光秀は側室を置かなかったとも言われ二人の仲の良さが窺えます。しかし、例えば煕子が嫁入り直前に疱瘡に罹り顔にあばたが残ったのを光秀が構わずに妻にしたとか、貧窮した光秀の為に自分の黒髪を売って連歌会に参加する費用を造ったというのは二人の仲の良さを強調した後世の創作だと考えられています。
そう聞くとガッカリしますが、一方で、史実の中にも二人の仲の良さを窺わせる話もあるのです。今回は瀕死の光秀を命に引き替えて看病した煕子についての話を紹介しましょう。
※この記事は、明智光秀残虐と謀略一級史料で読み解くを参考にブログ主の感想を交えて書いています。
転戦で疲労した光秀は倒れ曲直瀬道三邸で静養する
天正4年(1576年)は、光秀が多忙を極めた年だったようです。
明智光秀の軍勢は、そもそもが便利屋軍団で信長の命令によってあちこち転戦した上に天王寺や越前で本願寺勢と戦い苦戦し、丹波では赤井直正に破れて敗走する衝撃もあり蓄積された疲労が限界を迎え、五月二十三日に発病します。
戦えなくなった光秀は、やむなく帰京、医師であった曲直瀬道三正盛邸で療養します。
惟日(明智惟任日向守)もってのほか所労帰陣、在京也
兼見卿記
もってのほかの所労(疲労)ですから、ただ事ではありません。同時代の言継卿記によると、光秀の病状は非常に深刻で死亡説まで流れたそうですが、治療に努めると同時に信長も見舞いの使者を送るなどした事で、徐々に回復し七月十四日に吉田兼見が坂本城に来た時には面会できる程に回復していました。しかし、その代わりに光秀の妻、煕子が病気で倒れてしまったのです。
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夫、光秀を看病していた煕子
西教寺塔頭実成坊過去帳によると、煕子は光秀が病臥している間、兼見の吉田神社や雄琴の大中寺に祈祷を依頼し、必死の看病を続けていたそうです。その甲斐あり、光秀が回復すると安心した為か緊張の糸が切れてしまい病に伏し天正四年(1576年)十一月七日に死去しています。もっとも、こちらには異説もあり、後世の軍記物である明智軍記では天正十年(1582年)に坂本城が落城した時に死んだという説もあります。しかし、夫の戦死にあわせて坂本城で自刃して死ぬというのは武士の妻らしいテンプレな感じもあり、実際には1576年説が正しいように思えます。
煕子を看病していた光秀
同時期の兼見卿記を読むと、在京の煕子を看病する為に光秀が在京していた事が裏付けられるそうです。つまり、光秀は非常に多忙にも関わらず、煕子の看病の為に京に留まっていました。瀕死の自分を看病してくれた妻の愛に応えようとしたのでしょうか?
しかし、光秀は妻の最期まで看取る事はなかったようで命令により、信貴山城に立て籠もった松永久秀の討伐に赴きそれが終るや今度はリベンジ戦の為に赤井直正を攻略する為に丹波に入っています。妻の死を前に悲しんでばかりもいられない戦国大名明智光秀のつらい心情が伝わってくるような話です。
戦国時代ライターkawauso編集長の独り言
光秀には、さらに肉親の死が続きます。天正九年(1581年)八月七日または八日、光秀の妹、御ツマキが死去するのです。この女性は、信長に仕えた女房衆の一員であり、光秀の立場や考えを信長に直接代弁できるポジションにいた人でもありました。
実際に御ツマキの死去にあたり、同時代の多聞院日記、八月二十一日には
「去七日、八日の比歟、惟任ノ妹ノ御ツマキ死了、
信長一段ノキヨシ也、向州比類無く力落」
このようにあり、信長がこの御妻木に対しキヨシ也としています。キヨシの意味には、凶事、御旨(お言葉)、気良し(気立てが良い)等ありますがいずれにせよ、信長に何らかの感想を持たせる女性だったようです。
この後、光秀は対中国の毛利攻めの仕事を羽柴秀吉に奪われるなど、信長に対する影響力の顕著な低下がみられるようになります。