「漢委奴国王」と刻まれた金印ってどんなもの?教科書でもお馴染みの金印

2019年1月23日


 

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中学校の歴史の教科書に

写真と共に掲載されていることでお馴染みの

漢委奴国(かんのわのなのこくおういん
)
」の金印。

 

「漢」という漢字が見えることから

漢代に日本へ贈られたものであるということを

多くの人が推察することができるでしょう。

 

しかし、

その金印は一体なぜ日本に贈られたのか、

どのような意味が込められているのか、

どのように発見されたのかなど

金印について知らないことが

たくさんあるという人は多いはず。

 

今回は「漢委奴国王」と刻まれた金印について

あらゆる謎を解き明かしていきたいと思います。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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福岡の田んぼの中に埋まっていた金印

劉邦時代の農民

 

「漢委奴国王」と刻まれた金印が発掘されたのは

現在の福岡県福岡市東区志賀島あたり、

昔の筑前国那珂郡志賀島村東南部であったと言われています。

 

1784年、

江戸幕府第10代将軍・徳川家治(とくがわいえはる)の御代に

志賀島村で田んぼを耕していた百姓が

たまたま金印を発掘。

 

大きな石の下に

3つの石に囲まれた箱のようなものの中に

金印が入れられていたということで

秀治と喜平という百姓が那珂郡奉行に届けたそうな。

 

 

 

『後漢書』に金印についての記載が…!

 

奉行所に届けられた金印は福岡藩へと届けられ、

儒学者として名高い亀井南冥(かめいなんめい)によって鑑定されました。

その結果、

発掘された金印は

『後漢書』に記述されているものと

一致することが判明します

 

一致するとされた『後漢書』の記述は

東夷傳の以下の部分。

 

建武中元二年、倭奴国奉貢朝賀、

使人自称大夫。

倭国之極南界也。

光武賜以印綬。

 

以上の文章は簡単に訳せば次のようになります。

 

建武中元二年、

すなわち西暦57年に倭の奴国が

貢物を持って光武帝(こうぶてい)に謁見しにやってきた。

使者は大夫と自称した。

奴国は倭国の最も南にある。

光武帝は倭奴国に印綬を授けた。

 

たしかに

この記述は「漢委奴国王」の金印のことみたいですね。

『後漢書』では「倭」と記されている国の名前が

金印では「委」となっていますが

「委」は「倭」の略字なのでしょう。

 

後漢代のはじめ頃、

すなわち一世紀半ば頃の日本の時代区分は

弥生後期であったと言われています。

弥生時代といえば

人々は平和に農耕に励んでいたイメージが強いですが

既に小さな国々が乱立し

国と国との間での争いが絶えなかった時代でした。

 

そんな中で

奴国がわざわざ中国に朝貢に行って

金印を授けられたことには大きな意味があったのです。

大帝国・漢から金印を授けられるということは

正統な国として認められること。

金印を手に入れることで

奴国は他の有象無象の国々と違うということを

周辺諸国に知らしめることができたのです

 

まだ漢王朝で消耗してるの?

まだ漢王朝で消耗しているの

 

 

持ち手がヘビになっているのはなぜ?

 

 

教科書によく掲載されている写真では

金印の持ち手の部分が何を模しているのかが

わかりにくいと思いますが、

実は体を複雑にくねらせたヘビの姿がかたどられています。

 

ちなみに、

金印の持ち手部分については

他にも龍、魚、虎、亀、羊、ラクダ、馬などの動物や

鼻や瓦、橋などにかたどられたものが見つかっているのだそう。

 

ところで、

なぜ奴国はヘビの持ち手がついている

金印を授けられたのでしょうか。

 

実は、

金印のモチーフはどの方角に住む民族かによって

選ばれていたようです

北方の民族はラクダの金印を授けられ

南方の民族はヘビの金印を

授けられていたと考えられています。

 

奴国が属していた倭国は

『後漢書』東夷伝に載っていますし

これらの例外にあたるのかとも考えられますが、

倭国の南方にあったということで

南方の民族として漢王朝に認識されたのかもしれません。

 

ちなみに、

金印には紐が付いていたはずなのですが

それは流石に失われていたようですね。

しかし、紐の色は紫だったらしく

多色や綟(萌黄色)には劣るものの、

外国の王に授けられたものにしては

上等のものだったのではないでしょうか。

   

 

え!?金印って偽物なの!?

 

外国の王としては誉れ高い金印ですが

なんと偽造説が幾度となく唱えられている

怪しい代物なのだとか。

 

東夷なのにヘビがあしらわれていることや

『後漢書』の記述しか証拠がないこと、

江戸時代なら贋作を作ることもできたことなどが

偽造説の根拠として挙げられています。

 

しかし、

偽造説を覆す様々な根拠が示されたことや

1994年に実施された蛍光X線分析によって

中国産の金が用いられていることなどが推定されたことから

現代ではやはり「漢委奴国王」の金印は

本物であると考えられているようです

 

三国志ライターchopsticksの独り言

 

金印の持ち手は一体何を模しているのか

私にとって長年の疑問でしたが、

今回この記事を書かせていただいたことで氷解しました。

 

正直とけ残って適当に固まっちゃった

金の塊くらいに思っていましたが、

けっこう精巧に作られていたのですね。

 

それにしても

当時の人々の技術力の高さに頭が下がります。

 

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