三国志の魏のいしずえを築いた曹操。兵法や文学に通じ、八面六臂の活躍をしたスーパーヒーローだけど小柄で貧相な人というイメージがあります。はたして曹操は本当に貧相だったのでしょうか。正史三国志から読み解いてみましょう。
曹操が小柄だという話の出所
ちまたで曹操が小さいと言われている根拠は、劉孝標という人が『世説新語』の注釈の中で引用している『魏氏春秋』の中の次の一文でしょう。「武王は姿貌短小なるも神明英発たり」曹操は小柄だったが賢くて英気にあふれていた、と言っています。『魏氏春秋』は正史三国志の注釈にもよく引用されている歴史書です(正史ではありません)。『魏氏春秋』の編者の孫盛は曹操が亡くなってから82年後の西暦302年の生まれです。孫盛のひいおじいさんの孫資は曹操に仕えていますので、孫盛は曹操が小柄だったことを口伝えで知っていた可能性が高いですね。
『世説新語』の逸話
曹操が貧相であるというイメージが定着しているのは、『世説新語』の下記の逸話によるでしょう。(先ほどの劉孝標の注釈はこの逸話に付けられたものです)
魏の武帝(曹操)が匈奴の使者を引見しようとした時のこと。
曹操は自分の容姿がぱっとしないことを自覚しており、遠い国の使者に威厳を感じさせるには足りないと考えた。
そこで崔琰を身代わりに出し、自分は刀を持して床の傍らに立っていた。
会見が終わり、間諜に「魏王はどうだったか」とたずねさせると、匈奴の使者はこう答えた。
「魏王の偉容は並外れていました。しかし床の傍らで刀を持っていた人こそまさしく英雄です」
魏の武帝はこれを聞くと、追っ手を放ってこの使者を殺した。
『世説新語』は歴史書ではなく、週刊誌感覚の有名人の面白話集で、信憑性はさほど高くありません。しかし曹操の没後200年くらい経った頃にできた本ですので、その当時に曹操が貧相であったという話があったことは分かります。
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正史三国志には曹操の容姿の記述がない
正史三国志には、曹操の容姿の記述はありません。正史三国志武帝紀の注釈に引用されている『献帝春秋』には、曹操が呂布の配下に捕らえられた時に「曹操はどこだ」とたずねられ、曹操が「あの黄色い馬に乗って逃げて行くのがそうです」と嘘をついて難を逃れたという話があります。大将だと気付かれなかったほどだからやっぱり貧相なんでしょ、と思いますが、これも正史の記述ではないので、冒頭で予告した「正史三国志から読み解いてみましょう」に対応するアンサーにはなりません。
記述がないことが一番の根拠
先ほども書きましたように、正史三国志には曹操の容姿の記述はありません。曹操は三国の一つである魏のいしずえを築いた人ですが、他の二国、蜀と呉のリーダーについてはどう書かれているでしょうか。
【蜀の劉備】
身長七尺五寸、手を垂らせば膝の下に届き、振り返れば自分の耳を見ることができた。
【呉の孫権】
(劉琬のせりふとして)並外れた容姿を持ち、珍しいほど素晴らしい骨相を持っている。
これらの記述が、それぞれの伝の冒頭部分で書かれています。三国のうちの二国のリーダーについては冒頭で容姿の説明があるのに、曹操については書かれていない。これはどういうことでしょうか。曹操の容姿は、書くことがはばかられるほど貧相だったということではないでしょうか?
正史三国志は魏の後継王朝である晋の時代に書かれたものですから、晋のルーツである魏のことを悪く書くわけにはいきません。劉備や孫権の立派な容姿を書きながら、曹操の貧相な容姿を描写することはできなかったのではないでしょうか。
三国志ライター よかミカンの独り言
正史三国志に容姿の記述がないことこそが、曹操の容姿がすぐれなかったことの証明であると私は考えます。しかし何も書かれていない以上、貧相であったともそうでなかったとも、自由に想像できますね。容姿に恵まれなかったけれどもすごい人だったというのもかっこいいですし、容姿も業績も両方すごいというのももちろんかっこいいです。ぜひ皆様のお好みの曹操像を思い描いてみて下さい。
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