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【岳飛故事とは】岳飛の背中の入れ墨や名前の由来を解説

2019年2月7日


 

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岳飛(南宋の軍人)

 

岳飛(がくひ)は南宋(1127年~1279年)初期の武人です。北宋(960年~1127年)が金軍により滅亡させられたことにより、入隊して頭角を現しました。一兵卒から軍の総司令官にまで成り上がりましたが、金軍との和議を望む宰相の秦檜(しんかい)や南宋初代皇帝高宗(こうそう)と対立をしました。その結果、養子の岳雲(がくうん)、部下の張憲(ちょうけん)と一緒に無実の罪で投獄されて紹興11年(1141年)に殺されました。

 

39歳の若さでした。金軍と死ぬまで戦ったことから、〝中国史上最大の英雄〟と称賛されています。岳飛は死後に神格化されたので、様々な故事が誕生しました。今回は岳飛にまつわる故事と研究によって嘘が暴かれた故事を解説します。

 

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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岳飛の名前の元ネタは・・・・・・

 

読者の皆さんも1度は、自分の名前の由来を親に尋ねたことはあるはずです。筆者も尋ねたことはあるのですが、母が覚えていないと一刀両断にしてしまいました。

 

話が逸脱しましたが、岳飛は珍しく名前の由来があるのです。これがびっくりしたことに生まれた日に、屋根の上で鳥が〝飛〟と鳴いたからです。

 

「はあっ?」と思うかもしれませんけど、岳飛は元々、農民出身ですから親からすれば、名前なんて適当でよかったのだと思います。

 

 

生まれて3日で大洪水

 

岳飛は生まれて3日で大洪水に遭います。

 

しかし、母親は岳飛を抱えて近くの瓶に入って難を逃れました。史実らしいですけど、少し出来すぎた話です。3は例えに使用される数字なので、筆者は創作と推測しています。

 

 

 

岳飛は32歳で節度使になる

 

金軍との戦いで功績を挙げていくうちに、岳飛は節度使の位を授かりました。この時、岳飛は32歳でした。得意になった岳飛がこのようなセリフを残しています。

 

「32歳で節度使になったのは、太祖(たいそ)と俺ぐらいだ」

太祖とは北宋の建国者の趙匡胤(ちょうきょういん)です。

これはかなり無礼なセリフでした。

 

後年、投獄された時に岳飛はこの件を追及されたので、言ったのは本当だったのでしょう。

よく考えたら、こんな迂闊な発言をする男のどこが中国史上最大の英雄なのでしょうか。

 

 

朱仙鎮の戦いの虚実

 

岳飛の有名な戦いに〝朱仙鎮の戦い〟があります。

朱仙鎮とは現在の河南省開封市の南方に位置する場所にありました。

紹興10年(1140年)に、岳飛はそこで金軍と戦って勝利しています。

 

あともう一息で、金軍の都まで侵入予定になっていましたが、朝廷から帰還命令が出たので、引き返した逸話は有名です。

小説やドラマは、この話を盛り上げて取り入れています。

 

しかし、明治37年(1904年)に、市村瓚次郎(いちむら さんじろう)という日本の学者が、この逸話に関する論文を発表しました。

市村氏は岳飛の上記の逸話に関して、疑問を抱いていたので中国まで行き調査を行った結果、ある結論を出しました。

 

(1)岳飛は朱仙鎮には行っていない。

(2)そもそも、〝朱仙鎮の戦い〟が存在しない。

(3)岳飛が到達したのは、朱仙鎮より南の偃城(えんじょう)という土地まで。そこから引き返した。

 

上記3点を発表しており、現在日本の学会でも、ほぼ定説となっています。

 

背中の入れ墨

 

紹興11年(1141年)に岳飛は無実の罪で投獄されました。

この時に激しい拷問を受けました。

 

その時に、岳飛の背中に〝尽忠報国〟という入れ墨があることが分かりました。

そのためなのか後世、岳飛は忠義の臣と言われています。

 

しかし、宋代において入れ墨をしている武人は珍しくありません。

なぜなら、入れ墨は軍隊の逃亡防止として使用されていたからです。

 

また、南宋初期は勇猛果敢な内容の入れ墨を彫ることが流行っていました。

岳飛が若い時に仕えていた王彦(おうげん)も〝赤心報国〟〝誓殺金賊〟の入れ墨を顔に彫っていました。

岳飛の背中の入れ墨も上記のものと同様の性質です。

岳飛を忠義の臣と称賛するのは大間違いなのです。

 

岳飛故事の生みの親

 

岳飛はこのように様々な故事があります。

後世になるにつれて尾ひれが付いて、〝朱仙鎮の戦い〟〝尽忠報国の入れ墨〟の話のように誇張される話もでてきました。

では、話を盛った人は誰でしょうか。

 

実は岳飛には、岳珂(がくか)という孫がいます。

岳珂は祖父の無念を晴らすために執筆した、『金佗粹編(きんだすいへん)』、『金佗粹続編(きんだすいぞくへん)』という著書があります。

 

しかしこれらは極端な著書でした。

 

岳飛=正義、秦檜=悪

 

という図式が、はっきりしています。

 

また、歴史書の『宋史』巻365・岳飛伝も、岳珂の著書を丸写しにして執筆されています。

身内の主観が入っているので歴史的価値は、ほぼ無いと言われています。

 

さらに、岳珂の著書をもとに創作されたのが、小説『説岳全伝』です。

祖父の名誉のためとはいえ、嘘はいけませんね。

 

宋代史ライター 晃の独り言

 

岳飛の故事に関していかがでした。ドラマを見て岳飛に興味を持った人もいるかもしれません。そのような人たちにとって、この記事は幻滅するかもしれません。しかし、これが岳飛の本当の姿なのです。

 

 

※参考

・市村瓚次郎「岳飛の班師に就きて」(初出1904年、後に『支那史研究』春秋社 1939年 所収)

・外山軍治『岳飛と秦檜 主戦論と講和論』(冨山房 1938年)

・寺地遵『南宋初期政治史研究』(渓水社 1988年)

 

 

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晃(あきら)

晃(あきら)

横山光輝の『三国志』を読んで中国史にはまり、大学では三国志を研究するはずだったのになぜか宋代(北宋・南宋)というマニアックな時代に手を染めて、好きになってしまった男です。悪人と呼ばれる政治家は大好きです。
         好きな歴史人物:
秦檜(しんかい)、韓侂冑(かんたくちゅう)、 史弥遠(しびえん)、賈似道(かじどう) ※南宋の専権宰相と呼ばれた4人です。
何か一言: なるべく面白い記事を書くように頑張ります。

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