今回は明智光秀と熊本藩との関係について取り上げます。この記事では明智光秀の三女・玉(後の細川ガラシャ)について取り上げます。後半では細川ガラシャの子孫について取り上げます。
細川ガラシャとは?
明智光秀には2男4女がいました。玉は3女です。1563年、越前に生まれました。当時、光秀は越前国の戦国大名・朝倉義景の家臣として仕えていました。朝倉義景の家臣として構えた屋敷は現在の福井市にあり、明智神社として後世に伝えられています。
1578年、細川藤孝の嫡男の忠興に嫁ぎました。1582年、明智光秀が本能寺の変を起こし、織田信長を討ったため、玉は逆臣の娘となりました。細川忠興は妻の玉を丹後国の味土野に幽閉しました。
豊臣秀吉からの取り成しにより細川忠興は玉を細川家の大坂屋敷に戻すことになりました。玉が大坂屋敷に入ると、キリシタン大名で有名な高山右近に出会います。高山右近のカトリックの話を聞くと、その教えに惹かれてキリスト教徒になりました。玉は洗礼を受けて細川ガラシャと名乗ります。
1600年、細川忠興は徳川家康に従い、会津の上杉景勝の征伐に出陣しました。西軍の石田三成は大坂の屋敷にいたガラシャを人質に取ろうとしましたが、拒否しました。キリスト教では、自害することが禁止されているため家老に胸をつかせて、ガラシャは死亡しました。屋敷に爆薬を仕掛けて大坂屋敷は炎上しました。西軍の石田三成はガラシャの自害に驚き、人質を取ることをやめたといわれています。
細川ガラシャの子孫
明智光秀の子孫は本能寺の変後に自害したため、いないと考えられがちですが、細川忠興と光秀の娘の細川ガラシャの間に生まれた子孫が現在まで残っています。
初代熊本藩主は細川忠興の三男忠利です。忠利から18代目の当主に細川護熙氏がいます。細川護熙氏は総理大臣に就任することが決まった際、細川忠興の末裔として話題になりました。
細川護熙氏は国会議員になる前に熊本県知事を経験しました。熊本県知事を経て参議院議員・衆議院議員を歴任し、第79代内閣総理大臣に就任しました。当時、細川護熙内閣は自民党による55年体制にピリオドを打った非自民による連立政権で話題になりましたが、汚職事件によってわずか8ヶ月で辞職することになりました。1998年に60歳を区切りに政界を引退し、執筆活動やラジオパーソナリティを務めていたことがあります。細川護熙氏は執筆活動を中心に活動しています。
戦国時代ライターオフィス樋口の独り言
今回は明智光秀と熊本藩との関係について、前半で明智光秀の娘の細川ガラシャについて取り上げました。2020年の大河ドラマ『麒麟がくる』で、明智光秀を主人公にしたドラマが放送されることが決まると、関心の高さから明智光秀や細川ガラシャに関する新史料が公開され、話題になっています。
2018年8月から9月にかけて、熊本県立美術館で「細川ガラシャ展」が開催されました。この展覧会では、ガラシャの父・明智光秀に関する新史料や本能寺の変に関する文書も公開されました。この展覧会では、我々の細川ガラシャが持っているガラシャのイメージが明治時代に逆輸入されたことが紹介されています。逆輸入された内容は元侍女の証言やイエズス会の年報が基になっていると伝えられています。
1566年以前に明智光秀に関する史料はないとされていましたが、この展覧会では1566年以前の光秀に関する史料も公開されていました。他にも本能寺の変で、足利義昭が黒幕となったとされる史料や四国説の根拠となった「長宗我部元親書状」も公開されていました。大河ドラマの放送に合わせて、今後の明智光秀に関する研究が進展し、新しい発見があることを期待したいと思います。
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