景帝とはどんな人?「文景の治」の一角を担った前漢の第6代皇帝

2019年2月7日


 

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牛に乗って登場する光武帝(劉秀)

 

景帝(けいてい)といえば聞き覚えがあるという人は多いのではないでしょうか。景帝は後漢王朝の初代皇帝光武帝(こうぶてい)の祖先であり、三国志で活躍する蜀漢の劉備(りゅうび)の祖先であると言われている皇帝ですからね。その真偽は定かではないものの、彼らが胸を張って景帝の子孫を自称したのには訳があります。

 

それは、景帝が素晴らしい政治を行った皇帝として父・文帝(ぶんてい)と共にその治世を「文景の治」として讃えられているからです。果たして、後世まで讃えられている景帝とはどのような人物だったのでしょか?その素顔に迫ってみたいと思います。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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身内を殺しちゃったけどちゃっかり即位

景帝(けいてい)は前漢の第6代皇帝

 

 

素晴らしい政治を行ったという景帝。民草を慈しんだという彼はきっと素晴らしい人格者に違いないと誰もが思うことでしょう。ところが、景帝は決して人格者とはいえないことを皇太子時代にやらかしています。ある日、又従兄弟である呉王の世子・劉賢(りゅうけん)が文帝に拝謁に訪れました。

 

その拝謁の後は宴会が催され、景帝と劉賢は六博というサイコロを使った双六のようなゲームに興じていたのですが、劉賢もその臣下も無礼極まりない奴らで、サイコロの目を誤魔化したり下品な声を上げたりとやりたい放題。景帝も流石にブチギレ、六博の盤を持ち上げて劉賢に向かって投げつけました。すると、劉賢の頭に盤がガツンとクリティカルヒット。当たり所が悪かったらしく、劉賢はそのまま亡くなってしまったのでした。

 

劉賢の不遜な態度に腹が立ったとはいえ、人を殺してしまった景帝。皇太子の位も剥奪されるかに思われましたが、なんとそのまま皇帝に即位。というのも、4人の兄が早死にしており、ようやく景帝という成人した跡継ぎができたため、簡単に景帝を廃することはできなかったのでしょう。文帝にとって景帝はかわいい息子だったはずですしね。しかし、この事件が景帝の人生に大きく後を引くことになるのです…。

 

 



父・文帝の政治を受け継ぐ

 

父・文帝の素晴らしい政治手腕を傍で見ていた景帝は文帝の政治をなぞることに努めました。皇帝らしからぬ質素倹約な暮らしをし、費用が嵩む外征もなるべく行わず、農業を推奨して減税政策を打ち出すなど人々の生活を安定させる政治を行ったため、父・文帝の治世と同様、人々は景帝の治世を大変喜んだと言います

 

 

肥大した諸侯王たちの封土を没収

 

素晴らしい政治によって人々に愛された文帝でしたが、彼にも悩みがありました。というのも、景帝の時代には領地を持つ諸侯王たちの国が半分独立国状態になっていたのです。彼らの力がますます肥大すればゆくゆくは中央の脅威になりかねません。

 

信頼していた臣下である鼂錯(ちょうそ)の言葉を受け、景帝は重い腰を上げて諸侯王の領後の没収を行うことにします。ところが、当然と言うべきか諸侯王たちは反発を覚えるように。その不満は悶々と募り、ついにはかつて世子・劉賢を殺された呉を中心に密かに反乱計画が練られることになってしまったのでした。

 

 

ピンチ!呉楚七国の乱が勃発

 

景帝への反乱計画が実行に移される時が来ました。呉楚七国の乱の始まりです。

 

呉・・趙・膠西・膠東・菑川・済南の7国の王たちが「奸臣・鼂錯を討つ」という名目で挙兵。中央を凌ぐ兵の数に景帝もビビりまくっちゃいます。

 

しかし、そんなとき景帝の脳裏をよぎったのは亡き父・文帝の言葉でした。「何かあれば袁盎(えんおう)に相談しなさい。そして、周亜夫(しゅうあふ)に軍を任せなさい。」景帝は父の言葉通り、さっそく袁盎に相談します。ところが、袁盎の口から出てきたのは「鼂錯を殺害せよ」との言葉。大切にしていた鼂錯を殺すのは景帝にとってあまりにも辛いことでした。

 

しかし、相手の大義名分が「鼂錯を討つこと」だったために景帝は渋々鼂錯を処刑します。やはり鼂錯を処刑しただけでは反乱は収まりませんでしたが、反乱軍の拡大を食い止めることには成功しました。そして、その反乱軍を抑え込むことに成功したのはやはり父の言葉通り周亜夫でした。周亜夫は様々な戦法を用いて反乱軍の戦意をそぎ落とし、軍を崩壊させて反乱を鎮圧して見せたのです。父の言葉をよく聞いていた景帝は呉楚七国の乱という危機を乗り越えることができたのでした。

 

 

三国志ライターchopsticksの独り言

三国志ライター chopsticks

 

若い頃はちょっと思慮に欠ける行いがあった景帝ですが、父・文帝の振る舞いや言葉をよく覚えていたことで後世の人々にまで讃えられる存在となりました。父の偉大さは勿論のこと、景帝の素直さは多くの人々にとって見習うべき美点たり得るのではないでしょうか。

 

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楚漢戦争

 

 

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清朝考証学を勉強中。 銭大昕の史学考証が専門。 片田舎で隠者さながらの晴耕雨読の日々を満喫中。 好きな歴史人物: 諸葛亮、陶淵明、銭大昕 何か一言: 皆さんのお役に立てるような情報を発信できればと思っています。 どうぞよろしくお願いいたします。

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