紹興11年(1141年)に南宋(1127年~1279年)の武人の岳飛は金(1115年~1234年)との和議で対立していた宰相の秦檜の手により殺されました。岳飛は金との抗戦を主張していたことから、後世の人から愛国の武人として有名です。
一方、秦檜は岳飛の死の翌年に金との間に屈辱的な和議を結んだことにより、後世の人から売国奴の烙印を押されました。
今回は対照的な2人の死後の評価と岳飛の墓の前にある〝鉄像〟について解説します。
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金との再戦と岳飛の復権運動
岳飛の死後、岳飛の一族は全て広東地方に強制居住させられていました。
朝廷では紹興25年(1155年)に秦檜が死ぬと、岳飛に対しての復権運動は起こりました。
しかし、秦檜系の官僚により阻止されていました。
ところが、紹興31年(1161年)に金が再び南宋に侵攻してきました。
幸いにも戦いは南宋の勝利に終わりました。
この時になり、朝廷では秦檜に反対していた岳飛は先見の明のある人物だったと感心されて、岳飛に対しての復権運動が起きました。
南宋第2代皇帝孝宗は、岳飛の官職を元に戻して、墓も改めて作り直しました。
現在も存在している岳飛の墓は、この時のものです。
また、強制移住させられていた岳飛の一族も開放されました。
乾道5年(1169年)には武昌(湖北省武昌区)地元住民の頼みにより、岳飛をまつるための廟を建設しました。
その時に〝忠烈〟という名をおくりました。
さらに、淳熙6年(1179年)に岳飛には〝武穆〟という名をおくりました。
岳飛の完全名誉回復と秦檜の失墜
南宋第4代皇帝寧宗の時代に韓侂冑という男がいました。
筆者が大学時代に専門的に扱った人物です。
韓侂冑は時代の隔たりはありますが、秦檜に次ぐ悪徳宰相として有名です。
韓侂冑が岳飛を真似て、金に奪われた領土の奪還作戦に挑みます。
嘉泰元年(1204年)に韓侂冑は岳飛を〝顎王〟に封建しました。
とうとう岳飛は王様になったのです。
一方、秦檜に関しては持っていた位を全て剥奪しました。
これで将兵を鼓舞したのです。
ですが、戦には負けて韓侂冑は責任を負わされて死にました。
岳飛の墓の鉄像 その後の岳飛と秦檜の評価
岳飛の名誉が完全回復されると、秦檜は当然〝悪人〟のレッテルをはられます。
はっきりと表しているのが、杭州郊外西湖畔の岳飛の墓です。
岳飛は現在、養子の岳雲と一緒に眠っています。
墓前には秦檜とその妻の王氏の鉄像が跪いています。
王氏は秦檜が岳飛の暗殺に躊躇している時に、横から口を挟んだと言われています。
もちろん、信じるに値しない説です。
おそらく、後世の作り話と見てよいでしょう。
かつて、参詣者は鉄像に小便や唾をかけたと言われています。
現在は鉄像の近くに〝唾をかけないでください〟と立て札があります。
鉄像の変遷もかなり激しかったようです。
最初は秦檜夫婦だけでした。
ところが、明(1368年~1644年)になると張俊のような岳飛謀殺の臣下を加えたり、減ったりを繰り返しました。
清代(1644年~1911年)になると、さすがに地方官が鉄像を撤去をしようと考えました。
清は金と同じ民族の国なので、秦檜に対して同情的でした。
しかし鉄像の撤去が実ることはありませんでした。
清が滅んで世界大戦の時代に突入すると、岳飛は再び英雄としてまつられました。
一方、秦檜の評判は再び地に堕ちました。
それどころか、日中戦争の時は岳飛と秦檜を抗日教育の道具に使われました。
いつの間にか彼らはイデオロギーの材料になっていたのです。
宋代史ライター 晃の独り言
岳飛の記事を書くといつも、暗くなるのですよね・・・・・・
ちなみに、岳飛の廟は各地にあるのですけど、1番有名なのが、杭州の岳飛の墓がある廟です。
武昌の廟は現在、残っていません。
日中戦争の時に爆破されたようです。
※参考文献
・外山軍治『岳飛と秦檜 主戦論と講和論』(冨山房 1938年)
・井波律子『裏切り者の中国史』(講談社選書メチエ 1997年)
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