西夏(1038年~1227年)は現在の中国の甘粛省・寧夏回族自治区に建国されていた王朝です。通称タングート族と呼ばれています。当時、中国を支配していた北宋(960年~1127年)とは戦争を行うほどの対立関係でした。
北宋滅亡後は南宋(1127年~1279年)とも対立することになりますが、北宋ほどの激しい関係ではありません。ところで西夏はどのような過程で建国されたのでしょうか。
今回は西夏王朝建国過程について解説致します
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タングート族の内紛
北宋の第2代皇帝太宗の太平興国7年(982年)のことでした。タングート族の酋長の李継筠が亡くなりました。その弟の李継捧が後を継ごうとするも、一族から反対者が多く出て内紛になりました。李継捧は仕方なく、領地を与える代わりに北宋に保護を求めました。
承諾した北宋も李継捧を保護して、タングートの地に官吏を派遣しました。
李継遷の反乱
ところが、李継捧の族弟の李継遷が、北宋の保護下で過ごすことに不満を持っていました。李継遷は反乱の準備をしましたが、これは北宋に察知されて襲撃を受けました。
逃亡した李継遷は、再び部下を集めて北宋に反乱を起こしました。李継遷が反乱を起こした時期は、北宋と遼(916年~1125年)が交戦中の時期でした。李継遷は遼と姻戚関係を結び、援助を受けて北宋を苦しめました。
北宋は一時期、李継遷に対して官爵を与えることで懐柔作戦を試みました。李継遷も最初は従っていましたが、すぐに反旗を翻しました。それどころか、北宋の保護下で大人しくしていた李継捧まで反抗を始めました。
李継捧は間もなく捕縛されましたが、李継遷は定まった城中におらず、砂漠を転々と移動する作戦で逃げ回り北宋を苦しめました。次々と李継遷に西方の領土を奪われた北宋は、チベット系の西蕃族に李継遷の討伐を頼みました。
西蕃族は李継遷に降伏したフリをしました。そして隙を見て、李継遷に攻撃を仕掛けました。李継遷はこの時、流れ矢に当たり亡くなりました。時に北宋の第3代皇帝真宗の咸平6年(1003年)でした。
李徳明の平和主義
李継遷の死後、子の李徳明が後を継ぎました。景徳元年(1004年)、李徳明は北宋に和睦を申し入れました。
北宋から経済封鎖を受けただけでなく、北宋と遼の間で和議が成立したことが原因でした。李徳明は生きている間は、とにかく北宋に対して従順でした。彼のおかげで、疲弊していたタングート族は復興していき平和になりました。
だが、李徳明の手法に反対する人物がいました。
反骨の李元晃
それは息子の李元晃でした。李元晃の性格は祖父の李継遷に似ており勇猛果敢でした。そのため、父が北宋に対して従順な態度をとることが許せなかったのです。一方、李徳明も息子の態度を戒めました。(翻訳は現代の人に分かりやすくしています)
「我らタングート族は戦争で疲れている。だが、今はこうやって立派な衣服を着て過ごすことができる。これもみんな中国のおかげだ」
李元晃は父のへりくだった態度にあきれて言い返しました。
「父上、タングート族は毛皮を衣服として牧畜生活をしているのです。英雄として生まれた以上は王覇の大業を成し遂げるべきです。立派な衣服を着ることに何の必要があるのですか?」
結局、親子は最後まで分かりあうことは出来ませんでした。李徳明の死後に李元晃は父の後を継いで独立しました。
西夏の建国
北宋第4代皇帝仁宗の明道元年(1032年)に李元晃はタングート族は北宋から独立する決意を固めます。元号も定めて、〝顕道〟にしました。さらに、軍事・官制・文字も制定しました。
李元晃は最初にウイグル族を打ち破り交通の要所を確保しました。そして、仁宗の宝元元年(1038年)に李元晃は皇帝に即位しました。国号は「大夏」としました。中国の最古の王朝である、夏王朝と区別するため、現在は「西夏」呼ばれています。こうして西夏王朝が建国されたのです。
宋代史ライター晃の独り言
西夏はその後、北宋と7年間に渡る戦争を行います。結果は、引き分け状態で終わります。
李元晃以後の西夏は、精力的な動きを示すこともなく、最後はモンゴルのチンギス・ハンにあっけなく滅ぼされました。
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