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西夏王朝はどうやって誕生したの?反乱から建国までざっくり紹介

2019年3月9日


 

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西夏の旗の兵士

 

西夏(せいか)(1038年~1227年)は現在の中国の甘粛省(かんしゅくしょう)寧夏回族(ねいかかいぞくじちく)自治区に建国されていた王朝です。通称タングート族と呼ばれています。当時、中国を支配していた北宋(960年~1127年)とは戦争を行うほどの対立関係でした。

 

北宋(ほくそう滅亡後は南宋(なんそう)(1127年~1279年)とも対立することになりますが、北宋ほどの激しい関係ではありません。ところで西夏はどのような過程で建国されたのでしょうか。

 

今回は西夏王朝建国過程について解説致します

 

自称・皇帝
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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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タングート族の内紛

太宗

 

北宋の第2代皇帝太宗(たいそう)の太平興国7年(982年)のことでした。タングート族の酋長の李継筠(りけいいん)が亡くなりました。その弟の李継捧(りけいほう)が後を継ごうとするも、一族から反対者が多く出て内紛になりました。李継捧は仕方なく、領地を与える代わりに北宋に保護を求めました。

 

承諾した北宋も李継捧を保護して、タングートの地に官吏を派遣しました。

 

 

 

李継遷の反乱

 

ところが、李継捧の族弟の李継遷(りけいせん)が、北宋の保護下で過ごすことに不満を持っていました。李継遷は反乱の準備をしましたが、これは北宋に察知されて襲撃を受けました。

 

逃亡した李継遷は、再び部下を集めて北宋に反乱を起こしました。李継遷が反乱を起こした時期は、北宋と遼(916年~1125年)が交戦中の時期でした。李継遷は遼と姻戚関係を結び、援助を受けて北宋を苦しめました。

 

北宋は一時期、李継遷に対して官爵を与えることで懐柔作戦を試みました。李継遷も最初は従っていましたが、すぐに反旗を翻しました。それどころか、北宋の保護下で大人しくしていた李継捧まで反抗を始めました。

 

李継捧は間もなく捕縛されましたが、李継遷は定まった城中におらず、砂漠を転々と移動する作戦で逃げ回り北宋を苦しめました。次々と李継遷に西方の領土を奪われた北宋は、チベット系の西蕃族に李継遷の討伐を頼みました。

 

西蕃族は李継遷に降伏したフリをしました。そして隙を見て、李継遷に攻撃を仕掛けました。李継遷はこの時、流れ矢に当たり亡くなりました。時に北宋の第3代皇帝真宗(しんそう)の咸平6年(1003年)でした。

 

 

李徳明の平和主義

 

李継遷の死後、子の李徳明が後を継ぎました。景徳元年(1004年)、李徳明は北宋に和睦を申し入れました。

 

北宋から経済封鎖を受けただけでなく、北宋と遼の間で和議が成立したことが原因でした。李徳明は生きている間は、とにかく北宋に対して従順でした。彼のおかげで、疲弊していたタングート族は復興していき平和になりました。

 

だが、李徳明の手法に反対する人物がいました。

   

 

反骨の李元晃

李元昊

 

それは息子の李元晃(りげんこう)でした。李元晃の性格は祖父の李継遷に似ており勇猛果敢でした。そのため、父が北宋に対して従順な態度をとることが許せなかったのです。一方、李徳明も息子の態度を戒めました。(翻訳は現代の人に分かりやすくしています)

 

「我らタングート族は戦争で疲れている。だが、今はこうやって立派な衣服を着て過ごすことができる。これもみんな中国のおかげだ」

 

李元晃は父のへりくだった態度にあきれて言い返しました。

 

「父上、タングート族は毛皮を衣服として牧畜生活をしているのです。英雄として生まれた以上は王覇の大業を成し遂げるべきです。立派な衣服を着ることに何の必要があるのですか?」

 

結局、親子は最後まで分かりあうことは出来ませんでした。李徳明の死後に李元晃は父の後を継いで独立しました。

 

西夏の建国

西夏の旗の兵士

 

北宋第4代皇帝仁宗(じんそう)の明道元年(1032年)に李元晃はタングート族は北宋から独立する決意を固めます。元号も定めて、〝顕道〟にしました。さらに、軍事・官制・文字も制定しました。

 

李元晃は最初にウイグル族を打ち破り交通の要所を確保しました。そして、仁宗の宝元元年(1038年)に李元晃は皇帝に即位しました。国号は「大夏」としました。中国の最古の王朝である、夏王朝と区別するため、現在は「西夏」呼ばれています。こうして西夏王朝が建国されたのです。

 

宋代史ライター晃の独り言

 

西夏はその後、北宋と7年間に渡る戦争を行います。結果は、引き分け状態で終わります。

 

チンギス・ハン

 

李元晃以後の西夏は、精力的な動きを示すこともなく、最後はモンゴルのチンギス・ハンにあっけなく滅ぼされました。

 

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