貨幣や紙幣は宋代に誕生したの?宋代の経済生活を分かりやすく解説

2019年2月10日


 

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まだ漢王朝で消耗しているの? お金と札

 

宋代(960年~1279年)は様々なものが発展した時代で有名です。その代表的なものに〝貨幣〟があります。貨幣は唐(618年~907年)以前にも存在していたので、別に珍しくもありません。

 

発展したのは〝紙幣〟が誕生したことです。不思議なことに、それまで紙幣は無かったのです。ヨーロッパ・アラビア・日本にもありません。中国が最初に作り上げたのです。今回は宋代の貨幣事情を解説します。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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北宋の貨幣統一策

宋銭 お金と紙幣

 

唐が滅んだ後は乱世の五代十国時代(907年~960年)がしばらく続きます。各国は勝手に貨幣を鋳造していたので、一定した貨幣は存在しませんでした。そんな50年以上続いて、建隆元年(960年)に北宋(960年~1127年)が誕生しました。

 

貨幣の不統一に気付いた北宋は、粗悪な貨幣(主に鉄銭)を廃止して質の良い銅銭の鋳造を行うことにしました。開宝8年(975年)に南方の強国の南唐(937年~975年)を滅ぼして、江南に銅銭が行き渡るようにしました。鉄銭は廃止となり溶かして武器・農機具となりました。こうして北宋の貨幣統一策は成功した・・・・・・はずでした。

 

 

 

四川は鉄銭?

 

不思議なことに四川に銅銭は流通しなかったのです。考えられることは山奥であることから、運搬に不便だということがあったのだと思います。また四川は統一当初、宋の兵士が四川の民に略奪や暴行を働いたので、反朝廷感情の地域でもありました。実際に四川では北宋第2代皇帝太宗(たいそう)の時代に、王小波(おうしょうは)李順(りじゅん)という人が反乱を起こしています。このような状態だったので、四川の貨幣は北宋初期は鉄銭でした。

 

また、朝廷も四川に銅銭が入ることを禁じていました。

太平興国4年(979年)に禁令は解除されて流通するようになりますが、あまり浸透しませんでした。

銅銭の価値が上がると、鉄銭の価値は下落します。

逆のパターンも起きます。

 

こんなことが起きると困るのは商人でした。

そんな時に彼らはあるものを作りました。

 

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世界初の紙幣

 

やがて四川の商人組合は、交子というものを作りました。

勝手にやったのではなく、役所の許可を得ていたので違法性ゼロです。

これが世界最初の紙幣です。

 

これが無かったら、『北〇の拳』の名ゼリフ「こんなもんケツを拭く紙にもならないっつうのによ!」は誕生したなかったのです。

すみません脱線したので、軌道修正します。

 

ちなみに、ヨーロッパ最初の紙幣は1789年に作られたアシニヤ紙幣であり、日本は寛文元年(1661年)に福井藩が発行した藩札が最初とされています。

中国最初の紙幣交子は天聖元年(1023年)に作られました。

 

中国は日本・ヨーロッパよりも600~700年以上早かったのです。

交子は四川だけで流通していましたが、なかなか便利だったので、朝廷も目をつけて権利を買い取りました。

 

北宋滅亡後、南宋(1127年~1279年)になってからは会子・関子という名前の変遷をたどりました。

名前の変遷があった理由は、インフレが起きたからです。

南宋は北方の金(1115年~1234年)と長年に渡る戦で勝ったり、負けたりを繰り返したので莫大な負債を抱えました。

金の滅亡後には新たに台頭したモンゴルに圧迫されていきました。

 

さらに、政治に失敗等挙げればいくつも出てきます。

そのため、インフレが起きるたびに紙幣を名称を変更してお金の価値を上げようと苦心したのです。

 

結局、莫大なインフレは解決の糸口が見つかることなく、世界最初の紙幣は宋の滅亡と一緒に消えていくことになりました。

しかし、後世に残した影響は大きくその後の王朝や各国でも紙幣が使用されていくのでした。

 

 

宋代史ライター 晃の独り言

三国志ライター 晃

 

いやー、疲れました(汗)

やっぱり、経済史は得意分野じゃないのできついです。

 

手元にある本を参考にさせてもらいました。

実は宋代の経済史の研究は始まってから、100年程度です。

新しい分野の学問です。

 

ちなみに戦前は宋代経済史の研究が多かったのです。

興味がある人は調べてみてください。

 

※参考文献

・河上光一『宋代の経済生活』(吉川弘文館 1966年)

 

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北宋・南宋

 

 

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晃(あきら)

晃(あきら)

横山光輝の『三国志』を読んで中国史にはまり、大学では三国志を研究するはずだったのになぜか宋代(北宋・南宋)というマニアックな時代に手を染めて、好きになってしまった男です。悪人と呼ばれる政治家は大好きです。
         好きな歴史人物:
秦檜(しんかい)、韓侂冑(かんたくちゅう)、 史弥遠(しびえん)、賈似道(かじどう) ※南宋の専権宰相と呼ばれた4人です。
何か一言: なるべく面白い記事を書くように頑張ります。

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