今回は徳川家康の家臣で、徳川四天王の1人である酒井忠次の墓について紹介します。前半では酒井忠次の生涯について取り上げます。後半では酒井忠次の墓について取り上げます。
酒井忠次とは?
1527年、酒井忠次は三河国の松平家の家臣の嫡男として生まれました。
忠次の正室は徳川家康の父・松平広忠の妹または松平清康(家康の祖父)の娘であるといわれています。松平広忠の没後、酒井忠次は今川義元の人質となった松平元康(後の徳川家康)の人質となったときから支えていた人物として知られています。
今川義元が1560年の桶狭間の戦いで戦死すると、徳川家康は今川家から独立を目指します。三河国の独立を目指して、酒井忠次は家康を支えました。三河国の一向一揆、姉川の戦い、小牧・長久手の戦い、三方ヶ原の戦いなどで家康とともに戦い、武功を挙げて出世しました。
これまでの忠次の戦いが評価され、井伊直政・榊原康政・本多忠勝とともに徳川四天王の1人となりました。豊臣秀吉が全国を平定し、家康が関東に転封される前の1588年に酒井忠次は家督を嫡男の家次に譲りました。
晩年、忠次は目の病気を患っていたといわれています。隠居の際、豊臣秀吉から桜井屋敷と1000石が与えられ、死亡するまで京都の桜井屋敷で過ごしました。1596年に病気で死亡しました。
酒井忠次の墓がある知恩院とはどんな寺?
まず、浄土宗と知恩院について取り上げます。法然が浄土宗を開き、知恩院は1175年に建てられました。以後、知恩院は専修念仏の布教の拠点となりました。
意外かもしれませんが、知恩院と戦国武将との接点があります。1585年に豊臣秀吉が寺領190石の朱印状を付しました。1603年に徳川家康が知恩院を永代菩提所と定めたうえで、730石あまりを寄進したという記録が残されています。
知恩院へのアクセス方法
交通アクセスは次の通りです。京都駅の場合、市バス206系統で23分の場所にある知恩院前で下車すると行くことができます。京都駅から地下鉄に乗る場合、地下鉄で東山駅下車が便利です。東山駅から徒歩8分の場所にあります。
京都駅以外では、阪急河原町駅からバスで知恩院前まで行くことができます。河原町駅から徒歩で15分の場所にあります。京阪電車では三条駅からバスで、祇園四条駅から徒歩10分で移動することができます。
酒井忠次の墓はどこにある?
酒井忠次の墓について取り上げます。知恩院のすぐ下にある先求院で、知恩院裏山の墓地内にあります。忠次の隣には正室の墓もあります。知恩院には酒井忠次と正室の墓だけでなく、徳川秀忠の娘で豊臣秀頼の正室となった千姫の墓もあります。
戦国時代ライターオフィス樋口の独り言
今回は徳川四天王の一人の酒井忠次の墓について取り上げました。
酒井忠次の墓が京都市内の知恩院にあるということで、知恩院の紹介もしました。知恩院は交通アクセスのよい場所にあるので戦国時代のファンで時間がある人は知恩院に出かけてみてはいかがでしょうか。なお、先求院は知恩院のホームページに載っていないので分かりにくいかもしれません。
酒井忠次は家督を家次に譲りました。忠次のあとの酒井家について取り上げます。家次は家康の関東転封に合わせて、関東地方に移りました。1590年から下総国の臼井城、1604年から上野国の高崎城、石高が加増されたうえで1615年から越後国の高田城の城主となりました。
戦国時代といえば、仏教勢力と戦国大名との戦いという印象を受けている人がいるかもしれません。
しかし、戦国武将の墓は仏教の寺院にあります。例えば、石山本願寺の弾圧や比叡山の焼き討ちなど仏教勢力を弾圧した織田信長の墓は大徳寺や高野山などの寺院にあります。信長の死後、仏教との接点があるのも意外かもしれません。
今後、戦国武将の墓と仏教との関係について注目したいと思います。