岳飛の死後の南宋官界の状況はどうなったの?岳飛の死に影響はあった?

2019年3月20日


 

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岳飛(南宋の軍人)

 

岳飛(がくひ)南宋(なんそう)(1127年~1279年)初期の武人(ぶじん)です。北宋(ほくそう)(960年~1127年)が(きん)(1115年~1234年)により滅亡させられたことにより、軍に入隊して頭角を現しました。

 

一兵卒から軍の総司令官にまで成り上がりましたが、金との和議を望む宰相の秦檜(しんかい)や南宋初代皇帝高宗(こうそう)と対立をしました。その結果、子の岳雲(がくうん)や部下の張憲(ちょうけん)と一緒に無実の罪で投獄されて紹興11年(1141年)に殺されました。

 

39歳の若さでした。金軍と死ぬまで戦ったことから、「中国史上最大の英雄」と称賛されています。

 

さて、岳飛の死後の南宋の政治状況はあまり知られていません。

そこで今回は岳飛死後から隆興元年(1163年)の第3次宋金和議までを解説致します。

 

自称・皇帝
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専権宰相 秦檜

秦檜(しんかい)

 

紹興11年(1141年)に岳飛が獄死し、金との和議は締結しました。これを第2次宋金和議と言われています。その後、秦檜は実質的な権力者となりました。

 

秦檜は外戚との連携、密告奨励、言論弾圧、一族の科挙の裏口入学など多くの恐怖政治を行いました。この手法は秦檜が亡くなる紹興25年(1155年)まで続きました。秦檜は南宋政治を1人で操っていたことから、南宋の〝専権宰相〟の1人に数えられています。

 

 

 

金の南下

「金」の国旗をバックとした兵士

 

秦檜の死後、政治の実権を握ったのは沈該(しんがい)湯思退(とうしたい)でした。2人は秦檜の政策である金との関係を維持しました。

 

ところがこの2人は所詮、秦檜ジュニアです。実力は秦檜より相当劣ります。また、反・秦檜系の官僚も力を付けてきました。紹興29年(1159年)に沈該が、30年(1160年)には湯思退が罷免されました。

 

そして、金でも第4代皇帝海陵(かいりょうおう)が南宋征服のために南下しました。

「皇帝なのに王?」と思った人もいるかもしれないので少し説明します。

 

海陵王は暴君として有名であり、金の歴史では皇帝として認められていません。だから、王に格下げされているのです。

 

それでは話を戻します。

 

北宋・南宋

 

 

采石礫の戦いと海陵王の運命

 

紹興31年(1161年)に海陵王は南下しましたが、南宋に敗北しました。敗れた海陵王は軍中で反乱にあい、あっさりと殺されました。

これを「采石礫(さいせきき)の戦い」と言います。

   

 

孝宗の即位と張浚の起用

 

紹興32年(1162年)に南宋初代皇帝高宗(こうそう)は、引退して自分の養子に皇帝位を譲りました。これが名君として有名な南宋第2代皇帝孝宗(こうそう)です。孝宗は采石礫の戦いに乗じて、金を滅ぼす気でいました。

 

早速、張浚(ちょうしゅん)を朝廷に呼び寄せました。

 

張浚と言っても、岳飛を罪に落とした張俊(ちょうしゅん)ではありません。

名前がよく似た別人です。

 

「そんな名前区別出来るか!」と叫びたくなるかもしれませんが、実際にいた人物なので仕方ありません。張浚は岳飛と同時期に活躍した文官であり、主に四川方面の戦場を担当していました。

 

また、岳飛と同じ主戦派の人物です。主戦派の人物が来れば、みんなの勢いが増すと孝宗も考えたのでしょう。

しかし、当時の朝廷は張浚の再起用に良い顔をしません。

 

張浚の人物像

 

なぜなら、孝宗即位当初の朝廷の主だった人物は先代の高宗の部下です。彼らは秦檜の政治手法には反対ですが、戦争はやりたくなかったのです。

ましてや、孝宗が呼んだ張浚は先代の高宗が非常に嫌っていた人物でした。

 

それは張浚自身に問題があったそうです。朱子学の開祖の朱熹(しゅき)は張浚について、以下の評価をしています。

 

「張浚は能力に欠けている。大義は、至極明らかであるが、物事を何も分かっていない」

 

要するに口だけは達者で、実務能力に欠けているのです。実際に張浚は対金戦争で失敗したことがあります。そのためか、高宗は張浚の再起用の話が出るたびに「嫌だ!」と言って断っています。

 

敗北と第3次宋金和議

 

さて、朝廷に呼ばれた張浚は早速、親征を提案しました。

 

「おい、冗談だろ!」とみんなは大反対しました。だが、孝宗はやる気まんまんです。当時の宰相の史浩(しこう)が孝宗を説得しましたが、孝宗は無視して親征を決めました。

 

怒った史浩は宰相を辞任しました。ところが、符離(現在の安徽省宿州市)にいた南宋が、金の激しい抵抗にあって大敗しました。

 

これを「符離の戦い」と言います。

 

孝宗が敗報を知ったのは、親征の準備をした後でした。孝宗は赤っ恥をかいたのです。

 

結局、南宋は軍の立て直しが出来なくなったので、金と和議を結ぶことにしました。隆興元年(1163年)10月に第3次宋金和議が結ばれました。

 

宋代史ライター 晃の独り言

晃(あきら)akira

 

孝宗はその後、金との戦争をすることは無くなり統治に専念します。しかし、彼は科挙出身の宰相だけに政治を委ねずに、科挙出身者でない者にも政治をさせることを発案します。

 

だが、それはまた別の機会に話します。

 

※参考文献

・小林晃「南宋孝宗朝における太上皇帝の影響力と皇帝側近政治」(『東洋史研究』71-1 2012年)

・澤田久理子「張浚の評価について」(『東洋大学大学院紀要』42 2005年)

・寺地遵『南宋初期政治史研究』(渓水社 1988年)

・山内正博「武将対策の一環としてみたる張浚の富平出兵策」(『東洋史研究』19-1 1960年)

 

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北宋・南宋

 

 

 

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