女真族はツングース系の半農半牧の民族です。12世紀には金(1115年~1234年)を17世紀には清(1644年~1911年)を建国しました。金の天輔2年(1118年)に北宋(960年~1127年)に北宋と同盟を結んで、宿敵の遼(916年~1125年)を滅ぼす計画を立てます。
遼滅亡後は、北宋の条約違反と背反行為が発覚したことから、戦争に発展して北宋を滅亡に追いやりました。
今回は遼との戦いにおける金の強さと初代皇帝完顔阿骨打の頭脳プレイを紹介します。
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遼の衰退と北宋と金の同盟
北宋第8代皇帝徽宗の政和5年(1115年)に金が建国されました。元号は「収国」です。金は北宋と対立している遼の支配下にありましたが、長年の支配に耐え切れずに独立を宣言しました。金の反乱には渤海人も参加したので、遼は次々と打ち破られました。
その情報を耳にした北宋は重和元年(1118年)金に対して同盟を提案しました。
2年かけましたが、以下の点で交渉されました。
- 遼に差し出していた貢物は全て金に与える。
- 北宋と遼の間で問題になっている燕雲十六州(現在の北京から山西省大同市周辺) は北宋が自力で奪還する。
しかし交渉に曖昧な点もあり、さらに改善されて北京方面を北宋が、大同方面を金が攻撃することになりました。
完顔阿骨打の頭脳プレイ
ところが運悪く、北宋では宣和2年(1120年)に江南で方臘の乱が起きました。北宋はこの乱の鎮圧に3年もかけてしまい、遼の討伐に遅れが出ました。
ようやく鎮圧した宣和4年(1122年)に宦官の童貫が総司令官となり出陣しました。ところが出陣すると、ほとんどの領土は金に占領されていました。また、燕京(現在の北京)の戦闘では遼に敗北する始末です。
敗戦の責任を問われることを恐れた童貫は、金に援軍を頼んで燕京を陥落させました。金の諸将はこの時、北宋に対して燕京の領土割譲を要求しました。しかし、完顔阿骨打は「燕京は北宋に渡す約束になっていたから、約束を反故にすることは出来ない」と諸将の反対意見を抑えました。
ただし、その土地の民とお宝はしっかりともらって帰りました。確かに完顔阿骨打は土地をあげるという約束を守っています。
嘘はついていません。
彼は民とお宝はもらわないと約束していないのですから・・・・・・・結局、北宋は空き家同然になった燕京だけを手にいれました。
呆れたことに「わが軍は大勝利です」と都に報告する始末でした。
完顔阿骨打の最期
完顔阿骨打の次の標的は逃げた遼の皇帝天祚帝でした。
彼を捕まえねば、遼を滅亡させたと言えません。ところが、天輔7年(1123年)に完顔阿骨打は病に倒れて、この世を去りました。享年56歳でした。
後を継いだのは弟の完顔呉乞買でした。
これが金の第2代皇帝太宗です。
宋代史ライター 晃の独り言
太宗は従来、北宋に対して強硬姿勢の持ち主でした。
北宋が条約違反が発覚すると、即座に攻撃をすることを決意しました。
1度目は謝罪したので賠償金だけで許しましたが、後に北宋が遼の残党と連絡をとっていたことが発覚したので、再び攻撃をすることを決意します。
2度目の攻撃で北宋の首都の開封は陥落して、徽宗と北宋第9代皇帝欽宗をはじめ、多数の皇族や官僚が捕虜にされました。
これにより、北宋は滅亡しました。この事件を「靖康の変」と言います。ただし、偶然開封から離れていた趙構という皇族が即位しました。
この人物が南宋初代皇帝高宗です。
ここに南宋と金の戦が始まりました。しかし、それはまた別の話です。
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