演義における公孫瓚は、弟分である劉備を引き立てる「恩人」であり、自身も白馬を駆り戦場で名をはせた、「英傑」としてカッコよく描かれています。
しかし、それはかなり盛られた仮の姿でしかなく、正史三国志で描かれた彼は嫉妬に狂い、支離滅裂なことばかりやらかした挙句、情けない最期を迎えた「クズ野郎」と呼ぶにふさわしい、残念な人物だったのです。
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義理堅かった青年時代の公孫瓚
公孫サンは2千石(群太守・司隷校尉クラス)の有力豪族の子として、幽州・遼西郡で誕生しました。
生母の出自が卑しいかったため、ろくな官職を与えられませんでしたが、遼西郡太守だった劉基に容姿端麗な出で立ちと聡明さを認められ、娘である侯氏の婿となりその援助を受けて、盧植門下で経書・兵学を劉備と共に学んでいます。
強い恩義を感じていたのか、劉基に法を犯したという嫌疑がかかり、廷吏に連行されたときは、法に触れる危険を顧みず御者として随行。
かいがいしく身の回りの世話をしたという、義理堅さをうかがわせるエピソードも残っています。結局劉基は赦免となったため無事故郷に戻ることができた公孫瓚は、その後考廉に推挙され遼東郡属国の長史(地方都市の軍事統括官)に任命されます。
公孫瓚のクズ野郎伝説その1 「民衆を顧みない戦闘バカがやらかした鬼畜作戦」
涼州暴動や張純の乱などで戦功をあげた公孫瓚は、騎都尉(近衛騎兵隊長)へ昇進、見事自らの力で「二千石」を勝ち取ったのですが、立派だったのはここまで、クズの本性をあらわにしていきます。
初戦で張純を退けた公孫瓚でしたが、力押しに終始していたため、神出鬼没の反乱軍をなかなか壊滅できずにいました。
見かねた朝廷は、かつて幽州刺史として善政を敷き、異民族からの信頼も厚い劉虞を州牧として派遣、事態収拾を託します。
公孫瓚との長い戦いに疲弊していた鮮卑は、
「え?劉虞様が戻ってきた?」と色めき立ち、族長たちがこぞって帰順の使者をへ送ったため、張純の反乱は一気に終息へ向かい始めます。
武闘派の公孫瓚からすれば、このまま政治的解決されてはカッコがつかない、
「よし、邪魔してしまえ!」とばかりに、鮮卑使者の暗殺計画を企てます。
この計画は鮮卑側に筒抜けで失敗し、軍勢を取り上げられてしまいますが、懲りない公孫瓚はなんやかんだ劉虞の懐柔策を妨害。鮮卑族に劉虞が与えていた恩賞を民衆を巻き込みブン捕っていたうえ、仮病を使い劉虞からの会見要請を拒否っていたところなんて、クズ以外の何物でもありません。
その後も、公孫瓚の執拗な武力行使によって民衆が疲弊の極みに達したため、ついに劉虞は193年10月、異民族を糾合して10万余りの大軍を動員、幽州にとって排除すべき悪党、公孫瓚の討伐に乗り出します。
その時公孫瓚が取った行動こそクズの極み、何と民衆を盾にして城に立てこもるという、「外道作戦」を繰り出してきたのです。
慈愛に満ちた劉虞の性格を逆手に取る言語道断の作戦ですが、「公孫瓚だけを切ればよい、他を傷けないよう。」と思惑通りの指示を劉虞が発したため討伐軍は混乱、公孫瓚のゲリラ作戦によって切り崩され、劉虞は生け捕りになってしまいます。
公孫瓚のクズ野郎伝説その2 「名君劉虞を貶める残虐性とその後の粛清ラッシュ」
捕縛したとはいえ劉虞助命を嘆願する声が、あちこちで溢れかえっていたため、公孫瓚は民から人気のある劉虞を貶めるべく、皇位簒奪を測った極悪人と讒言。
劉虞に6州を任せようと朝廷が派遣した使者・段訓を脅迫、まんまと劉虞を一族もろとも処刑することに成功したのです。目の上のタンコブを排除できた公孫瓚はご満悦、益々そのクズっぷりを発揮していきます。
劉虞を殺したことで、民衆からそっぽを向かれているにもかかわらず、「俺は全知全能の人格者だ!」と、意味の分からない自信を抱いた彼は、幽州の支配者として贅をつくし、同時に劉虞の家臣を次々に粛清していきます。
しかし、数人生き残った遺臣たちと、袁紹の元に逃れていた忘れ形見である劉和、さらに劉虞を慕う烏丸・鮮卑との連合軍による、猛烈な反撃にタジタジ。そこにきて華北で覇権を争うライバル、袁紹がチャンスとばかりに援軍を送ったため、公孫瓚はなすすべもなく本拠である易京城に退き、籠城せざるを得なくなります。
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公孫瓚のクズ野郎伝説その3 「クズ過ぎる考え方と当然の最後」
公孫瓚が立てこもった易京城は幾層もの城壁を備える堅城だったため、「貯えている10年分の兵糧を食べているうちに、何とかなるでしょ?」
となぜか自信満々。
事ここに至って公孫瓚の傲慢さはさらにひどくなり、袁紹の降伏勧告に返事すら書かず、自らは城の最深部に籠り側近を退け、妾達と遊楽三昧の日々を起こります。
ある時、全線で奮闘する将から援軍要請が来たものの、公孫瓚はそれを無視して見殺しに。
その理由について彼は、
「1人に援軍をを繰ると他の将も援軍を頼り必死に戦わなくなる」なんてイミフなことをのたまう始末、もうクズの末期症状が出始めています。
自力では袁紹軍を撃破できないし援軍も来ないとなれば、前線の公孫瓚軍の崩壊は当たり前。あっさり撃破されるか自滅したため、袁紹は楽勝で易京城の門前に到達します。
さすがに焦った公孫瓚は息子である公孫続に密使を送り、派遣先であった張燕軍と連動し、内外から挟み撃ちする作戦を立てましたが、密使が袁紹の斥候に捕らえられ計画が漏れたため、出撃するもフルボッコ。
自慢の易京城も袁紹の奇策、「地下道作戦」によって突き崩され、死を悟った公孫瓚は妻子を刺殺した後居城に火を放なって自決、199年のことでした。
三国志ライター 酒仙タヌキの独り言
不遇な身の上から立身出世し白馬将軍と称えられたにしては、あっけない最期を遂げた男、公孫サン。
袁紹にこっぴどく敗れた息子公孫続も、正史ではその後フェードアウト。一説では公孫瓚を恨む異民族に惨殺されたといわれており、演義に至ってはその存在すら描かれていません、…合掌。
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