織田信長は天下統一までに何をしてきた?

2019年4月10日


 

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南蛮胴を身に着けた織田信長

 

日本の戦国大名の中で最大勢力を保有していた織田信長(おだのぶなが)

 

彼は天下統一を目標として邁進していましたが、織田信長は天下統一までに何をしたのでしょうか。今回は織田信長が天下統一までにしたことを紹介したいと思います。

 

 

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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織田信長が天下統一までにしたことその1:巧みな外交戦略

 

 

織田信長が天下統一までにしたことその1は巧みな外交戦略が挙げられるでしょう。

 

燃える本能寺

 

織田信長は本能寺の変(ほんのうじのへん)で亡くなる時には日本最大の戦力を保有していましたが、弱っちい小大名の時代もありました。織田信長は弱小大名の時、戦国最強の武田家と上杉家の両家と同盟を締結。

 

暗号を使う上杉謙信

 

織田信長は強敵の武田家と上杉家の両家と同盟を結びながらも彼らを怒らせないようにへりくだった態度をしていましたが、武田家と敵対するようになってしまいます。織田信長は上杉家に武田家を攻撃するように泣きついて、武田軍が織田家に攻撃を仕掛けないように努力しますが、この作戦は失敗に終わってしまいます。

 

織田信長はこの時の外交戦略の失敗を省みて、巧みな外交戦略を展開していきます。織田信長は上杉家と同盟が破綻し、敵対するようになると関東近辺の大名と同盟を結び上杉家の足を引っ張る作戦を展開。

 

織田信長は関東近辺の大名家だけでは心もとないと思ったのか、奥羽の大名とも同盟して上杉家の足を引っ張ります。織田信長の外交努力の結果、上杉家は手取川(てどりがわ
)
で織田軍を痛めつけた後、織田家の領土へ侵攻することなく、軍勢を引き上げてしまいます。

 

また中国の覇者・毛利家と敵対したときは九州の大名・大友家と手を結んで毛利家と戦いを繰り広げていきます。このように織田信長は天下統一までに北は奥羽。

 

南は九州の大名を味方につけながら、敵対する戦国大名と戦いを継続させていくのでした。

 

 

 

織田信長が天下統一までにしたことその2:古い権威を適宜に使用したこと

足利義昭

 

織田信長が天下統一までにしたことその2は古い権威を適宜に使用した所です。織田信長は古い権威が力を持っている事を知っていました。そのため織田信長は将軍・足利義昭(あしかが よしあき
)
を上手く利用。

 

織田信長は将軍・足利義昭と対立し始めると、将軍を見捨てて朝廷のトップ・天皇に接近していきます。織田信長は将軍・足利義昭を京都から追放した後、天皇に接近したことで「天下人」のお墨付きを貰います。

 

その後織田信長は天皇と持ちつ持たれつの関係を維持していくことになり、朝廷の協力を得ることにも成功します。

 

織田信長スペシャル

 

 

織田信長が天下統一までにしたことその3:戦いの戦術にブレがない

馬に乗って戦う若き織田信長

 

織田信長が天下統一までにしたことその3は戦いの戦術にブレがない所です。

 

織田信長は戦に望むとき、敵の兵数よりも多くの兵士を持って常に敵のエリア(領土)へ侵入して戦いをしてきた武将で、本能寺の変で亡くなるまでこの戦い方を貫き通した武将です。

 

浅井長政(あざいながまさ)

 

ではここからは織田信長が上記のような戦術をとっていたのかどうかを代表的な合戦から紹介したいと思います。姉川の戦いは浅井・朝倉の連合軍よりも多くの兵士を引き連れて戦い、浅井・朝倉連合軍を打ち破っています。

 

また長篠の戦いでも織田信長は武田軍よりも多くの兵士を率いて戦に望んで、大勝利を得ています。ここから分かるように織田信長は常に敵よりも優勢な兵力を持って出陣し、敵のエリアで戦いを行ってきた戦国大名で、本能寺の変で亡くなるまでこの戦い方は変わりませんでした。

 

 

戦国史ライター黒田レンの独り言

三国志ライター黒田レン

 

今回は織田信長が天下統一までにしたことをいくつか紹介しました。

 

この他にも織田信長は天下統一までに行動を起こすスピードを重視したり、「楽市楽座(らくいちらくざ
)
」などの経済政策を行うことで経済の活性化を図ったりいろいろなことをしています。

 

上記で紹介した織田信長が天下統一までにしたことはあくまで一例ですので、みなさんの参考になればいいなと思っております。

 

■参考文献 信長の天下布武への道 (戦争の日本史)

 

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黒田廉(くろだれん)

黒田廉(くろだれん)

三國志が大好きです。オススメのマンガは曹操を描いた蒼天航路がオススメです。三國志の小説のオススメは宮城谷昌光氏が書いた三國志です。好きな食べ物はマグロ、ぶり、アジが大好きな猫です。

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