夷陵の戦いの敗因と言えば、色々なものがありますよね。劉備が冷静じゃなかった、戦線が伸びすぎた、陸遜を侮り過ぎた……それこそ今までに数多く論争をされてきた部分だと思います。しかし今回はもう一度この夷陵の戦いを振り返り、その最大の敗因をじっくりと考えていきたいと思います。
しっかりと兵站を守っていた劉備
良く「劉備は関羽を失って冷静さを欠いていた」「陸遜を若輩と侮って油断した」と言われます。では本当に劉備は冷静さを失っていたのか?そして陸遜を侮って油断していたのか?それはそうとばかりも言えません。劉備は夷陵の地まで呉軍と戦い、小城を落としていきます。その距離約350㎞。
そしてその長江沿いの各地に補給基地をしっかりと作っています。夷陵の戦いの前に「樊城の戦い」がありますが、ここで関羽の敗北の原因として補給がしっかりできていなかったからというものがあります。
その失敗を踏まえて、きちんと劉備は補給基地を確保しているのです。これは決して冷静さを失っている訳でも、油断しているとも言いきれないのではないでしょうか?
夷陵まで進んでいったことは間違いだった?
劉備は蜀を出立してから勝ち進みます。そして遂には夷陵を落とし、長い山路を抜けて江陵前の平地まで進みます。
これを見た呉の武将たちは「どうして山路を塞がなかったんだ!ああいった「険」の場所は道を塞ぐのが常識だろ!」と総大将であった陸遜に怒ります。この「険」とは険しい道のことで、孫子の兵法でこういった道は出てくる通り道を塞いで敵が大きく布陣できないようにしなさい、というものです。
もちろん陸遜には考えがあるのですが、それは後世の私たちだから分かることで説明も何もされていない呉軍諸将から見れば当然の反応ですよね。
確かに夷陵を抑えられてしまえば蜀軍は大きく布陣できませんでした。結果的に陸遜の術中に嵌ったとはいえ、まず戦いもできなかったかもしれないことを考えると決してこの時点では間違いとは言えないと思います。寧ろこの時点だけで考えれば、どう見ても呉が押し負けそうな状態になっているのです。
「劉備はこの後負けるから話すことはない」
しかしこの蜀の布陣、状態の報告を受けて慌てない人物が二人いました。
まずは呉の陸遜。
曹丕は報告を受けている最中に立ち上がり、退出しようとしました。慌てる部下に曹丕はただ「劉備はこの後負けるだろう」と語ったといいます。この時陸遜には、曹丕には全てが見通せていたと思うと、何だか怖くも感じますね。
ノーマークの水路と次々と焼かれていく補給基地
ある夜、陸遜は水軍で長江を逆走。蜀軍後方の補給基地を次々に火攻めで攻撃しました。蜀軍は水路、長江に対してノーマークでした。
これは油断しすぎと言わざるを得ませんが、蜀軍は長江の流れを逆走して水軍が上がってくるとは考えなかったのではないでしょうか。また長江の川幅は1キロ近くあるので、それを全て封鎖できるほどの兵も蜀軍としては割いていられなかったのでしょう。
ここで勘違いしがちなのですが、火攻めされても蜀軍本体は無傷です。陸遜の火計は有名ですが、あくまでそれで数多くの兵士を焼き殺した、という訳ではありません。しかし夜、自分たちの背後で次々と火の手が上がっている…退路に敵が出た、補給基地がやられた、食料だけじゃない、自分たちはどうなる?そんな不安と恐怖にかられた蜀軍の士気はガタ落ち、そこに呉軍が襲い掛かってきたのです。やる気は大事ですからね、不安と恐怖で一杯の蜀軍では太刀打ちができなかったことでしょう。この士気の低下、同時に退路を断って蜀軍を退けるのではなく壊滅させる…それこそが、陸遜が仕掛けた計略の凄さであり、夷陵の戦いの最大の敗因と言えるでしょう。
三国志ライター センの独り言
夷陵の戦いの敗因はたくさんあります。数多くの人たちがその原因を今までに論争して来ているそれを、否定するつもりは全くありません。
しかし敢えてここで劉備は決して油断してばかりではなかったこと、そして陸遜の火攻めがどれほど大きなダメージを与えたのかを再確認して、あくまで筆者が考えた夷陵の戦いの最大の敗因、としての考えを述べさせて頂きました。ぜひ皆さんも夷陵の戦いを振り返って、貴方の考える最大の敗因を考えてみて下さいね。
参考:https://ja.wikipedia.org/wiki/夷陵の戦い
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