西夏(1038年~1227年)は現在の中国の甘粛省・寧夏回族自治区に建国されていた王朝であり、別名はタングート族です。
北宋(960年~1127年)の第4代皇帝仁宗の時代に戦争が行われるほど対立をしていました。
北宋滅亡後は南宋(1127年~1279年)とも対立していました。だが、北宋ほど激しい関係ではありません。
最後はモンゴルのチンギス・ハンにより滅ぼされました。
この西夏の初代皇帝は李元昊と言います。景宗とも呼ばれていますが、李元昊が有名なのでこの記事では李元昊で通します。
以前も筆者は李元昊に関して記事を執筆したことがあります。
その時には詳細には執筆しなかったのですが李元昊は晩年には、とんでもない悲劇が待ち受けていたのです。今回は西夏初代皇帝李元昊の晩年の悲劇と彼の墓について執筆します。
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息子の嫁を寝取る
7年間も北宋と死闘を繰り広げた西夏戦争でしたが、決着がつくことはありませんでした。西夏の天授礼法延祚13年(1044年)に、西夏と北宋は和議を結びました。この和睦を「慶暦の和約」と言います。
交渉の結果、北宋は西夏に対して毎年貢物を差し出すことになりました。戦争に勝利は出来ませんでしたが、李元晃は外交面において勝利を得ることに成功しました。
さて、戦争も無くなったことで李元昊はすっかり暇になりました。
戦争後は酒に溺れてしまい、皇后や皇太子を廃したので国内の治安は乱れました。かつての名君の姿は影も形も無くなってしまいます。挙句の果てに李元昊はとんでもないことをしたのです。李元昊には李甯令哥という長子がいました。
この李甯令哥の夫人が美貌の女性でした。李元昊はなんと、この夫人に手を出したのです。それどころか、子供まで出来てしまいました。
今風の言葉で言うのなら、NTRですね。
一瞬、筆者は使う資料を誤ったのかと思いましたが、本当に書いているから仕方ないですね。決して筆者は〝薄い本〟や〝いけないDVD〟を資料として使っていません。
さて、脱線したので話を戻します。
ブチ切れたのは長子の李甯令哥です。嫁を奪われる、子供は出来るなど悲惨です。しかも、李甯令哥も皇太子の座を追われていたのです。もう我慢の限界でした。天授礼法延祚17年(1048年)に李甯令哥は李元昊を襲撃しました。
残念ながら李元昊の殺害は出来ませんでしたが、この時に李元昊は鼻を切り落とされました。出血が止まらなかったのか、李元昊は翌日亡くなりました。
享年46歳でした。
ざまあみろと思った読書もいるでしょうけど、お話はこれで終わりではありません。主犯の李甯令哥も父殺しの罪で処刑となりました。ただのケンカ両成敗ですね・・・・・・
結局、李元昊と李甯令哥の夫人との間に出来た子が皇帝として即位しました。西夏第2代皇帝毅宗です。なんか釈然としない結末です。
李元昊の墓はどこ?
くだらないことで死んだ李元昊ですが、彼の墓はどこにあるのでしょうか。彼の墓は甘粛省・寧夏回族自治区・銀川の西35キロの賀蘭山東麓の西夏王陵遺跡です。
通称・「東洋のピラミッド」と呼ばれています。ピラミッドと言っても形は三角ではなく、土饅頭のようです。人間は不思議な墓があったら、なんでもピラミッドと名付ける癖があるようです。王陵は9つありますが、李元昊は3番目の王陵に葬られています。初代皇帝なので、もう少し豪華な墓なのかと思ったら、案外質素なのですよ。
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宋代史ライター 晃の独り言
今回は西夏初代皇帝李元昊の最期についてお話しました。彼がこんな風になったのは、天罰ですね。
しかし、名君と呼ばれる人のほとんどの晩年は哀れですね。
なぜでしょうね?
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