今回は上杉謙信の墓について紹介します。上杉謙信といえば、敵に塩を送るとか天下を狙わない戦国武将で有名です。この記事では、上杉謙信の墓を3箇所を取り上げます。
上杉謙信の墓:高野山
高野山は和歌山県にあります。金剛峯寺は空海(弘法大師)が開いた真言宗の総本山で、高野山にあります。平安時代中期以降、貴族や上皇らが高野詣で高野山を参詣することが盛んになりました。高野山だけでなく熊野詣も盛んになり、その当時できた参詣道が変わることなく残されていたことから2004年に世界文化遺産に登録されました。
高野山にある上杉謙信の墓について取り上げます。上杉謙信は家臣らの領地争いを見て嫌になり、高野山に出奔したことがあります。大河ドラマで見たことがある読者がいると思います。上杉謙信は幼い頃に真言宗の寺で修行していたことがあり、その時に真言宗と接点があったと考えられます。
高野山には上杉謙信だけでなく、川中島で敵だった武田信玄、織田信長、明智光秀、豊臣秀吉、石田三成、徳川家康など様々な戦国武将の墓もあります。
上杉謙信の墓:林泉寺(新潟県上越市)
上杉謙信は越後守護上杉氏の守護代だった長尾為景の四男として生まれましたが、寺に預けられました。長尾為景の跡を継いだ長尾晴景は病弱で、越後国内での内輪もめが絶えなかったため、晴景は出家していた長尾景虎を寺から呼び戻し、家督を継いで景虎は越後国の戦国大名となりました。関東管領の上杉憲政が北条氏康に敗れ、越後国に逃れたときに関東管領となり、上杉謙信と名乗ります。
林泉寺は上杉謙信の居城だった春日山城の山麓にあります。長尾為景が春日山城を築きました。春日山城は春日山の山頂にあり難攻不落の城として知られていました。また、城下町としても栄えていました。上杉謙信の墓は新潟県上越市の林泉寺にあります。
林泉寺への交通アクセスは次の通りです。えちごトキめき鉄道はねうまライン春日山駅から徒歩30分の場所にあります。
上杉謙信の墓:林泉寺(山形県米沢市)
上杉謙信の死後、上杉景勝が上杉家を継ぎました。上杉景勝は豊臣秀吉から越後国から会津国に移るように命じられ、東北地方会津藩120万石の大名となりました。豊臣秀吉から五大老の一人として政権の中枢にいました。
関ヶ原の戦いは上杉景勝の家臣だった直江兼続が書いた直江状を徳川家康に送ったことがきっかけで始まりました。関ヶ原の戦いでは、石田三成と連携して東北地方で戦いましたが、関ヶ原の戦いで西軍が負けました。
西軍が負けたことにより、上杉景勝の石高は会津藩120万石から米沢藩30万石に大幅に減らされ、景勝は米沢藩主となりました。以降、米沢藩主は江戸時代終わりまで上杉氏でした。
上杉謙信の遺骸は越後から会津を経て米沢に移ったと伝えられています。林泉寺は越後国の春日山城の山麓にあったのが米沢に移りました。その後、米沢城内に上杉謙信を祀る御堂が建てられましたが、現在も米沢市の林泉寺は上杉氏の菩提寺となっています。
山形県米沢市の林泉寺のアクセスは次の通りです。JR奥羽本線米沢駅よりタクシーで約12分の場所にあります。
戦国時代ライター オフィス樋口の独り言
今回は上杉謙信の墓を3箇所紹介しました。1箇所目は高野山で、上杉謙信と真言宗との接点を取り上げました。2箇所目は新潟県上越市の林泉寺で、城下町として栄えた春日山にあることが分かりました。
3箇所目は山形県米沢市の林泉寺を紹介しました。米沢藩主は江戸時代が終わるまで上杉氏でしたが、上杉景勝が米沢藩主になったときに林泉寺は米沢に移ったことが分かりました。
最後に、今回取り上げませんでしたが、米沢城内に上杉神社があります。上杉神社には上杉謙信や藩政改革で有名な上杉鷹山の像もあります。今後、上杉謙信の墓だけでなく、ゆかりの地にも注目したいと思います。
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