『水滸伝』は明(1368年~1644年)の時代に執筆された小説です。モチーフは北宋(960年~1127年)末期に起きた小規模な反乱です。
リーダーの宋江も実在しています。小説の宋江については、知っている人は多いでしょう。しかし、史実の宋江について知っている人はあまりいません。そこで今回は史実の宋江について解説します。
たったこれだけ? 少なき史実の宋江の解説
宋江は宋代の史料に名前は出てくるのですが、断片的であり特徴をつかむことが難しい人物です。その中から簡単に要約すると以下の通りです。
(1)宋江は義賊ではなくただの盗賊
(2)従っている幹部は108人ではなく36人
(3)最後は張叔夜という人に討伐されて降伏
(4)方臘討伐に従軍。以降の消息不明
以上です。「えっ?」っと思った人が、いるかもしれません。
「梁山泊は?」と思うかもしれませんが、史実の宋江は山東省の梁山泊を根城にしていません。
安徽省(淮南)を荒らしていた盗賊です。
(2)についてなのですが、これは『宣和遺事』という書物に記載されています。しかし、『宣和遺事』は小説風な書物であり、史料としての信ぴょう性が疑われます。(3)、(4)は『宋史』、『東都事略』という書物に簡単に記されているだけです。要するに史実の宋江に関しては永遠の謎といっても過言ではないのです。しかし、この永遠の謎に挑戦した日本人がいました。
天才学者宮崎市定と「宋江2人説」
その日本人の名は宮崎市定と言います。彼は中国史においては、天才的なひらめきを持った人物でした。
宮崎氏は1939年に陝西省で発掘された墓誌を見ました。墓誌は生前にその人物の功績を詳細に記したものです。墓誌は折可存という人のものです。墓誌に書かれた文章によると、折可存は方臘討伐に従軍して、その帰りに盗賊の宋江を捕縛したことが記されていました。宮崎氏は墓誌銘と他の史料を読んだ結果、ある矛盾に気づきました。図にすると次の通りです。
宣和3年(1121)1月7日 宋江が方臘討伐に出陣(『三朝北盟会編』)
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同年 2月ごろ 盗賊の宋江が暴れる(『宋史』)
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同年 4月24日 宋江が方臘の隠れ家を包囲(『皇宋十朝綱要』)
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同年 4月26日 方臘が捕縛される(『皇宋十朝綱要』)
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同年 5月3日 宋江が張叔夜(折可存?)に捕縛される(『東都事略』、折可存の墓誌)
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同年 6月5日 方臘の残党勢力を破る(『皇宋十朝綱要』)
上図の通り、宋江は官軍に従軍したり、盗賊になったり明らかに矛盾した行動をとっています。前述ように宋江は張叔夜に捕縛された後に、方臘討伐に従軍となったはずです。ところが、宋江は正月出発の時点で官軍所属です。だが墓誌銘では方臘討伐後に捕縛されています。そこで宮崎氏はある結論を出しました。
「宋江2人説」です。
もちろん、双子でもドッペルゲンガーでもありません。宣和3年当時、偶然官軍に宋江という人物がおり、盗賊の宋江という人物も存在していたのです。つまり、ただの同姓同名の赤の他人です。まるで推理小説みたいな、大胆な説を宮崎氏は出したのです。しかし史料から、かなりの説得力を持っていたので、日本では現在でも有力視されている説の1つです。
国外の反応
余談になりますが、宮崎氏は張叔夜が捕縛した宋江と折可存が捕縛した宋江は、全くの別人と推測しています。これに対して中国では、「そんなことを言っていたら、宋江が何人もいることになるだろう!」と批判が出ました。
しかし中国では宮崎氏の提出した史料に対して、あまり関心は払われていません。宋江が降伏したこと、農民一揆の方臘の反乱を鎮圧したことを政治的なイデオロギーと絡めて批判することが多いようです。
宋代史ライター 晃の独り言
以上が史実の宋江です。史料が少ないので、宮崎説を取り入れました。
なお、宋江が鎮圧した方臘に関してもいずれ解説します。
※参考
・宮崎市定「宋江は2人いたか」(初出1967年 後に『宮崎市定全集12 水滸伝』(岩波書店 1992年所収)
・宮崎市定『水滸伝 虚構の中の史実』(初出 1972年 後に『宮崎市定全集12 水滸伝』(岩波書店 1992年所収)
・柳田節子「1970年代の宋代農民戦争研究」(唐代史研究会編『中国歴史学会の新動向 新石器から現代まで』 1982年所収)
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