施耐庵とはどんな人?三国志演義の原作者は実際に小説のような人生を送った?

2022年7月28日


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施耐庵 水滸伝の作者

 

施耐庵(したいあん)元末(げんまつ)から明初(みんしょ)にかけて活躍した役人、文人です。水滸伝(すいこでん)三国志演義(さんごくしえんぎ)平妖伝(へいようでん)の作者とも言われ、門人(もんじん)羅貫中(らかんちゅう)に文章を構成させていたとも言われています。

 

今回は謎に包まれた施耐庵の三国志演義にも負けないドラマチックな人生を解説しましょう。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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貧しい胥吏の子供として蘇州呉県に誕生

長安(俯瞰で見た漢の時代の大都市)

 

施耐庵は元貞(げんてい)2年(1296年)蘇州平江路呉県(そしゅうへいこうろごけん)胥吏(しょり)(下級役人)の子として誕生します。施家(しけ)はとても貧しく施耐庵は塾にも入れてもらえず、7歳から独学で勉強を開始しました。しかし、13歳の時に滸墅関鎮(こしょかんちん)で私塾を営む先生に巡り合い必死に学問を積みます。

 

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役人になるがモンゴル人の横暴に嫌気が差し辞職

モンゴル兵(蒙古兵)のモブ(兵士)

 

施耐庵は頭が良く19歳で秀才(しゅうさい)に選ばれ、塾の先生の娘と結婚しました。25歳の頃、親孝行で信義に篤い事がしばしば蘇州役人の耳に入り、29歳で孝廉(こうれん)に挙げられ至順(しじゅん)2年(1331年)36歳にして科挙(かきょ)に合格して進士となります。

 

同じ年に進士になった人には後に明王朝の建国の功臣になった劉基(りゅうき)がいました。やがて施耐庵は銭塘県尹(せんとうけんいん)の職を得ますが、(げん)の総督で徴税官であるダルガチの操り人形なので(こころざし)を得られず県尹を辞めます。

 

これが朝廷を怒らせてしまい、施耐庵は激しく詰問(きつもん)されて逆切れ、折角就(せっかくつ)いた役人を辞めてしまいました。

 

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施耐庵は施家に帰り義父の塾を引き継いで学生に教えていましたが、この生徒の中に商人の子、羅貫中もいたそうです。

 

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しかし、ここまでに施耐庵は父母も妻も子も失い、後妻として申氏(しんし)を迎えたとされます。そして、この頃から民間に伝承されている水滸伝を収集して一冊の本にまとめる作業を開始しました。

 

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塩賊、張士誠の軍師として活躍

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至正13年(1353年)塩の販売業者の張士誠(ちょうしせい)元朝(げんちょう)に対して反乱を起こします。この張士誠配下の卞元亨(べんげんこう)は施耐庵の従兄弟でした。卞元亨は施耐庵に「是非、兄貴も張士誠の軍に入って欲しい」と説得、結局、張士誠の軍師待遇で入隊して様々な献策をして張士誠を助け蘇州の制圧に力を貸しました。

 

しかし、張士誠は勢力が大きくなると施耐庵の献策を聞かなくなり、愛想がつきた施耐庵は軍師を辞め、弟子の羅貫中と中国各地を遊学していたそうです。

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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